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>>>   趣旨

お知らせ 2008-04-06 17:58:19 

 いつもブログを読んで頂き、有難うございます。

 不具合が多いため、以下のサイトに移転いたしました。

 今後とも、宜しくお願い致します。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

この記事URL:http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=103

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>>>   質疑応答

質疑応答81 2008-04-06 16:34:08 

【質問】


ところで、清森問答の、「私の白道・5」の投稿を拝見しましたところ、一番、大切なところが書かれておらず、心配になりました。
結論として、この投稿者のかたは、華光会の書物に掲載されていて、かつ親鸞会の「これが獲信か」に掲載されている信心は、本物の信心だと思われているのでしょうか?

信前の身で他人の信心決定をどうこう言うのは危険なこと、と思ってはいますが、親鸞会の「これが獲信か」に掲載されている信心決定の様子は、私には、真実信心には思えません。
たとえば、人から責め立てられて罪悪感や無常感をつのらせて、一時の感情で盛り上がるのは、自己啓発セミナーなどでおなじみの、人の心理を操作する手法の一つだと思いますし、自分で納得できず人から認定される信心などは、阿弥陀仏を信じる前に、その認定してくれる人を信じなくてはいけませんから、全く一向専念無量寿仏に程遠いと思うのです。

投稿者のかたがいろいろと調べられた事実は、
----------------------
・親鸞会は異安心といって華光会を否定しているけれど、高森先生ご自身が、華光会で教えを受けて獲信したという過去がある。
・記録を見ると、そのときの高森先生の信心は、今現在、親鸞会で異安心と批判されているものと同じである。
----------------------
ということですよね。ここからはいろんな結論、例えば、次の三つなどが導き出せると思います。
----------------------
1.「これが獲信か」の内容が(華光会が)異安心なら、高森先生も異安心である。
2.1.の逆で、両方とも真実信心である。
3.高森先生は最初は異安心であったが、のちに正しい信心を得られた。
----------------------

私はいま、親鸞会に近い立場なので、3.を選んでしまうんですが、この投稿者の方は、1.か2.か(それ以外にもあるでしょうけれど)を考えられて、華光会のお話を聞き、高森先生のご法話を聞き、さまざまな書物などを読まれた結果として、
■今の高森先生のお話を聞いていたら信心決定できない。華光会で聞けばできる。
という結論に行かれたように読めました。

でも私には、上に書いた通り、「これが獲信か」に書かれている信心は本物と思えないし、華光会でそれを信心と認めているとしたら、華光会は、危険な団体だと思うのです。
「これが獲信か」には悪意があると、投稿者のかたは書かれていましたが、華光会のホームページでご法話の記録を見たところ、やはり実態は人工信心のようにみえました。
もちろん、少し読んだだけでは分からないところもあると思いますが…

一つの価値観に凝り固まっては危険、という主張は、私も納得するところなのですが、あの投稿を読むと、親鸞会への否定に乗じて、危険な場所へ、人を勧め入れてしまうのではないか、と思えて心配になりました。

もしよろしければ、清森様たちは華光会で説かれている教え、そこでの獲信について、どのように考えられているか、教えて頂ければ、幸いです。

 

【回答】


 投稿者に尋ねたところ、「これが獲信か」に掲載されている信心が、真実信心かどうかは分からない、と言われていました。高森先生の信心についても、分からないということでした。

 高森先生が、「獲信の記録(高森先生20歳の時の御著書)」では華光会の信心を勧めておられながら、一方で「これが獲信か」では徹底的に批判されているという点に、疑問を懐いておられるということです。

 私も「獲信の記録」を読みましたが、とても真実信心とは思えない体験談が多数、掲載されています。これを読みますと、高森先生を異安心だと非難する人があるのも分かります。

 思いますに、やはり体験談では、私達には、判断がつかないと思います。

 最近では少なくなりましたが、以前は、顕正新聞などに、獲信の体験談が、時々、掲載されていました。

 しかし、その後、すぐに亡くなられた方以外は、私の知る限りでは、ほとんど御縁を遠のけられてしまいました。

 真実信心で御縁を遠のけられる方も、あるかも知れませんが、多くは異安心だったのではないか、と思います。

 そうだとしますと、親鸞会でも、「異安心の体験談」を多数掲載してきたことになりますので、華光会のことばかりを非難できなくなると思います。

 私自身は、華光会の法話に参詣したこともありませんし、増井悟朗氏にお会いしたこともないので、華光会がどのような団体か、分かりません。

 増井吾郎氏の著書を読む限りでは、今まで高森先生から教えて頂いたことと、同じ事を教えている方だと思いました。

 また、同じ師の下で10年以上も共に学ばれた方でもありますし、おそらく高森先生と同じ信心だと思っております。

 ですが、真実信心と信じ難い体験談などを読むと、華光会の教え方については、どうなのか、という疑問も起きてきます。

 いずれにしましても、華光会については、私はよく知りませんので、その辺りは分からないとしか言いようがありません。

この記事URL:http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=102

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>>>   私の白道

私の白道・5 2008-04-05 13:17:44 


(私の白道)

1回 3月10日質疑応答74
2回 3月16日質疑応答80
3回 3月20日投稿1
4回 3月29日投稿5
5回 4月 5日投稿              元親鸞会講師


○私と華光会との出会い

 インターネットで親鸞会を検索し、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の中で「高森顕徹氏の著書のルーツ」で盗作を知った私は、大沼氏と華光会伊藤氏のことを知り、電話で著書を取り寄せ真偽を調べました。本当だった。
 前回お知らせしたように、盗作は非常識行為に留まらず、当然高森先生の説法内容に大きく影響しており、問題の根の深さに驚きました。

 今回は華光会・伊藤氏との関係、問題点をお伝えします。
 講師部も知らされていない、勿論会員さんにも隠されてきた真実が見えてきました。


(伊藤康善氏)

1897年(明治30年)奈良県の寺院に生まれる。
昭和44年死亡(67歳)
仏教大学(現龍谷大学)卒業
浄土真宗興正寺派学頭
浄土真宗華光会創始者(昭和33年)
著書に「仏敵」「安心調べ」「我らの求道時代」「善き知識を求めて」「化生の世界」「死を凝視して」他、多数ある。
(これらから盗作されていた)

・「仏敵」は伊藤氏自身の獲信体験を書かれた著書で、読む人をして阿弥陀仏の本願の尊さ、不思議さを実感させられる書である。読まれることをお勧めします。(春秋社より出版)


(増井悟朗氏)

1925年(大正14年)大阪市に在家に生まれる。
龍谷大学研究科卒業・浄土真宗本願寺派布教使、華光会現代表者。現在も健在で布教に全国へ行かれる。
著書に「念仏の雄叫び」「親指のふし」「廻心の体験」「後生の一大事」「宗教とカウンセリング」その他

・「御法話テープ」も多く有り、法話が聴聞出来ます。

 

○高森先生の求道の原点

・高森先生は1929年(昭和4年)富山県の浄土真宗本願寺派の末寺の次男として生まれる。
 16歳の時、海軍航空隊予科練に入隊。敗戦で除隊
 龍谷大学入学。
 17歳(数え歳18歳)で信心決定、在学中から布教活動をする。
 浄土真宗親鸞会結成、会長就任(昭和33年)29歳


 皆さんが知っておられるのは、ほとんどは親鸞会の歴史「法輪の響き」で描かれた上記の高森先生だと思います。
 しかし、どのようにして獲信されたのか、教えを受けた善知識はないと言われ、最近は特に自分の体験を話しされません。
 個人的な獲信は話するな、聞かぬ方がいいという指導になっています。
 親鸞聖人のお言葉には摩訶不思議な力があるから、お言葉だけを伝えればいいのだと言われています。

 

(30年ほど前の高森先生の言葉)

・「本願寺前の総会所へ参っては一番前で一言も漏らすまいと聞いた。全部、方言まで覚えていて後で書いた」
・「火葬場の灰を握って無常を取りつめたり、線路の上に座って取りつめようともした」
・「死んだ後が有るのか、無いのか大学の友達と論議したが、勝てなかった」
・「奈良のおばあさんの所へも聞きに行った。一晩中聞かせてもらったが信心決定が出来ず、あんたは無宿善かもしれないと言われて、泣き泣き帰った」
・「橋の下の乞食になってもいい、後生の一大事が解決出来るなら手足の1本や2本無くなってのかまわん解決したいと思って求めた」
●「私には、教えを受けた先生はいない。親鸞聖人に導かれて信心決定したのです」


 古い講師部、会員さんなら聞いたことがあるでしょう。
 しかし●のところ、「わたしには導く善知識はなかった」にウソがあったのです。


○高森先生と伊藤氏、増井氏との出会い、ご縁の歴史


昭和21年(17歳)
6月先輩の増井悟朗氏に龍谷大学内で声を掛けられ華光同人となり、求道の指針を示される。
7月富山県の実家へ帰省。増井氏より伊藤氏著作の「仏敵」や「華光」誌などの本を送られ読む。
大学の夏休み中に獲信(数え歳18歳)
新学期になって増井氏に獲信したことを話す。

10月学友に獲信体験を語る。また、伊藤氏の「療養と求道」を貸し与える。
伝道部の総会でも熱弁をふるい、華光例会に学友を誘う。
ご縁のある人に「仏敵」を勧める。
●「華光」第5巻、5号に獲信体験を発表する。

昭和23年(19歳)
8月実家の寺に伊藤氏を招き、法話、座談会を開催。
両親、高森先生とご縁のあった5人の座談会の内容を後に出版する。

昭和24年(20歳)
1月華光社より座談会の内容を、高森顕徹著「化城を突破して」と題して出版販売価格100円。
9月第1回全国華光法話大会に参加して説法する。

昭和25年(21歳)
3月「化城を突破して」を「獲信の記録」と改題して再販する。
7月京都で増井悟朗氏と語り合い、吾勝氏と3人で奈良県の伊藤氏の寺を訪問する。

昭和10年(27歳)
12月「会報」執筆始まる。

昭和33年(29歳)
伊藤氏「浄土真宗華光会」を宗教法人に登録。
高森先生は華光会との縁を切り「浄土真宗親鸞会」を結成、宗教法人に登録、会長に就任する。
○伊藤、吾勝氏は高森先生の本心、理由を聞きに富山県に尋ねて来られるが、面会拒否する。

昭和41年(37歳)
1月「華光」誌に最後の年賀挨拶を載せたと聞く。

昭和45年(41歳)
11月「会報」第5集出来る。完結する。

平成11年(70歳)
6月「これが獲信か」のパンフレットを全会員に配布して徹底させる。
華光会を「土蔵秘事に類するもの」異安心として伊藤氏、増井氏を激しく非難する。

○「会報」を廃刊にする。理由は発表されない。
インターネットでは、伊藤氏からの盗作だと非難されていた。
改定版「私の道」も発刊されなかった。


・こんなことが本当だろうか、信じられないと思う方も多いと思います。
 華光会、伊藤、増井氏と縁が有り、10年余りも師として法友として活動を共にしていた過去が実在したのです。
 勇気を出して、事実を明らかに見て下さい。
 これから、その事実と問題点を明らかに致します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


○高森先生
「華光」誌第5巻5号

「学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に、何だか嫌になり、或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていたことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。
はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々
これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただ、うれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。」

・獲信に至った経過と信後の心境を正直に告白した文章です。
 それを裏付けるように増井氏の著書「念仏の雄叫び」にも詳しく載っています。

 

○増井悟朗氏
「念仏の雄叫び」14Pー16P

「彼は、私よりずっと年下で、ズングリした小柄なイガグリ頭で、休憩時間になると、教室で端座して黙想していました。私が、この男ならと目をつけていた一人でした。彼は「地獄、極楽の有無を問われたら、どう答えるか。僕の檀家の予科練帰りの青年なんだがーーー」と質問しました。
それで私は「あんた自身はどうか?」とつつくと、「うん、僕はわかっているが、説明の仕方がわからん」という。入信後、日も浅い私だが、人の信、不信はわかるのです。これは、彼自身の質問だと直感したが、地獄、極楽の存在を問題にする前に、無常観と罪悪観を話してあげれば、地獄行きは人ごとでない、自分だと受け取れるだろう」
と申しましてね、罪悪観と無常観の具体的説明をしたわけです。勿論、他の友人たちにも聞いてほしかったのは言うまでもありません。

九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。
帰途、T君(高森君)のレポートを歩きながら目を通していた私は、胸が熱くなって、そのまま彼の下宿にとってかえしました。
「おい、きみ、よかったなあ・・・」と、手を取りあって法悦を語り合いました。彼は、私から手渡されていた恩師(伊藤康善師)の入信体験記「仏敵」にかじりついて、無常観、罪悪観をつき進めて、ついに獲信したようでありました。」
後で知ったことですが、私を知るまでの彼は、本願寺の総会所の説教聴聞に熱心に通っていたようです。説教の後で講師室を訪ねては「地獄、極楽はありますか」と質問を重ねていました。どの講師も即答する人がない。その応答ぶりで、その人の不信心がピンとくる。誰に尋ねるすべもなく、彼は、悶々としていたというわけです」

・高森先生の告白と内容が一致する。
 増井氏こそ高森先生の顕正者であったのです。
「仏敵」を書かれた伊藤氏こそ高森先生の善知識であったのです。

 

 皆さん、この事実、聞かれたことありましたか。
 私は以前(30年ほど前)親鸞会から華光会へ行った人から、「高森先生には善知識がおられる、隠されている、私は知った」という電話をうけて、何を馬鹿なことを言っているのか、そんなことがあるなら言われる筈だ、と全く問題にもせず、信じ切っていました。
 ここを読まれている方の中にも当時の私と同じ思いの方もあると思いますが、事実なのです。


○伊藤康善氏
「われらの求道時代」

・華光学生運動44P-45P

伊藤師 「終戦直後の龍大に信仰運動が起こったのは稀しかったね。中心は君(増井氏)や高森君や吾勝君で、その上に池田君が指導していた。一時は龍大生、女子大生が五、六十人も集まったではないか。」

増井氏 「華園会館や三条詰所で信仰の大会をやると三日間で二百人位、集まりました。江州から女学生が多く集まった。その人達に龍大生が信仰示談するので、皆が熱心に聞きましたね。高森君等は京都駅で街頭演説していましたよ。そのご縁で華光会館を建てて下さった北口夫婦に信仰の火が移りました。あの当時に集まった学生諸君も地方寺院の住職として各地で活動しています。」

 

・華光青年僧を知る228P--229P

伊藤師 「華光の高森君を知ったのは其の頃ですか」

北口夫人 「終戦後の蓮如上人四百五十回忌に田舎の人々を連れて本山に参詣しますと高森先生の天幕伝道を承りました。私と同じようなスッパリした信仰体験談で、今日までどなたからも、これほど元気の良い話を承ったことがありません。これは有難い方に巡り会ったと喜びまして自宅へ招待しました。実は私よりも主人に聞かせたかっのです」

伊藤師 「高森君に対する御主人の印象はどうです」

北口主人 「私は高森先生に初対面した時、粗末は学生服で黒タビに靴をはいておられましょう。二階へ上がる時見たのですが、そのタビが破れています。その姿に感心しましたね。学生ならは服装も飾って皆によく見てもらいたい年頃です。それを捨てて勉学や伝道に熱心なのは普通な方でないと思いました。---」

伊藤師 「あの人は現在北国方面で在家伝道者として大きな感化力をおよぼしています。華光同人の信仰運動は皆が総かかりなっても僕一人には及ばないとホラを吹いていましたが、実際らしいですね。2ケ年先の伝道の日取りもギッシリ詰まっていて京都へ出る時間すら無いのです。龍大で信仰運動を起こし、北国に帰ってから地方でその人ありと言われるくらいで、あの熱烈な説教は奥さんが惚れたように誰でも感動します」

 

小田あさみさん262P

「講演の後は高森先生を囲んで車座になって示談があるのですが、私はなるべく先生のおそばに近づいて話を聞きました。一週間もすると、先生に分かれるのが悲しくて、家へ帰る道の反対に6里(24キロ)ばかり離れた三次(広島県)までバスで送りました。先生と別れる時に一冊の「仏敵」を手渡されて、「秋の華光大会までには是非、獲信してくれ」と頼まれました」

・伊藤師、増井氏と高森先生がいかに当時、信頼関係が深かったか、知らされます。
華光会館を建てた人の顕正者は高森先生だったのです。

「仏敵」を渡して、これを読んで獲信するように言われていた師を、なぜ「土蔵秘事に類するもの」と罵倒しなければならないのでしょか。

 

○高森先生

「獲信の記録」について

 この本がまさか60年後に多くの人の知るところとなり問題になるとは高森先生は夢にも思っておられなかったと思います。
 講師部暦のどんな古い人でも、会員さんでも読んだことは無いと思います。絶対に読ませたくない、知られたくない本と思います。

・恩師、伊藤師を富山県の実家の寺に招待して、御法話、ご示談がなされました。
 両親、高森先生とご縁のあった獲信者、5人の方のご示談の様子が目前で行われている様に、活き活きと伝わってくる。
 ここに、特に注目すべき方の体験談が載っていた。

高森先生のお母さんです。
78P-80P

「龍大生になった顕徹は、二年頃から仏教に対する態度がガラリと一変しました。
今まで徹到徹尾、反宗教的な子供が急に有難そうにしきりに念仏し始めるようになりました。
ところが、その念仏が普通でない、喜び方も狂気じみていますので、ああとうとうこの子は仏法狂人になったのではあるまいか、お寺で念仏するのは外聞が悪いことはないが、この子の将来を思うと気が気でありません。
その頃からです、大学の休暇に帰省するや、いなや、これまたどうしたことか、廃立とやら何とやら小難しい理屈を覚えて参りまして、平和で念仏喜んでいる村人を捉えては眼の色を変えて議論します。----
住職(お父さん)に忠告致しました。
「こんなことで顕徹が門徒の信心を惑乱させていますが、貴方は黙って見ていられるのですか。あれは昔からやかましい地獄秘事とやら、土蔵秘事とやら云う異安心では御座いませんか。
何処で、そんな阿呆なことを覚えてきたのやら。この様子では門徒は二派に別れてくるではありませんか、何とか貴方から、注意してやって下さい」
と云うと、住職は済ました顔で「あれが本当なのだ。決して秘事でも異安心でもない、あそこまで真剣に行かぬと当流の信心は徹底しない。
ところが、あそこまで真剣に説く人が少ないのだ。我が子ながら感心な奴が出来た」と云って喜んでいます。
住職がそう云うならば、私が黙って引き込むより外の道はありません。-----
所が私には又、私に相応した様な方法で、如来様の御慈悲に徹底させて頂いたのです」

・これから、生々しく獲信への体験が語られていきます。

伊藤師146P

「仏法王国と云われる此の富山ですら、此の大浦(高森先生の村)で獲信する者が続出すると皆がびっくりする。何故、皆が驚くのか、それは本当の信心を戴いた人が少ない証拠です。--全く、焼け野原の只中で暮らしているような気持ちで居りましたが、我々の同信の友から、高森顕徹と云う弱冠の若武者が飛び出して、轟々たる非難嘲罵を押し切って、廃立の法幢を押し立てた」

・伊藤師は高森先生の活躍を心から期待し、称讃しておられる。

 

●伊藤師、華光会が「土蔵秘事に類するもの」なら次の疑問が起きてきます。

1  高森先生は増井氏の話を聞き、また「仏敵」「華光」などを読み、獲信したと自ら語っておられるが、18歳の時のその信心も異安心ですか。

2  18歳の時、自分は正しく獲信したが10年余り、伊藤師の信心を異安心と疑問に思わなかった。分からなかったのですか。

3  お父さんは高森先生が善き師(伊藤師)に出会ったことを喜ばれて、奈良県から自分の寺に招待し、説法を門徒と聴聞し、ご示談に参加された。
伊藤師が土蔵秘事の異安心とは言っておられない。もしそうなら、門徒の人に異安心の話を聴聞させてしまったことになり、恐ろしい罪を造られたことになりはしませんか。

4  村の方に高森先生は布教されたが、5名の獲信者は誰も三願転入の話を聞いたと言っていない。廃立は説かれた。
三願転入せずしてアリ一匹助からぬと今、説かれていることに合わないのですが、どう理解すればいいのですか。
この時の村人の信心は皆、異安心ですか。

5  高森先生は18歳で獲信、このご示談は2年後ですが2年ほどの布教で村人5名も獲信されたことになります。
「これが獲信か」には「二十年や三十年で獲られる信心なら、億劫にも獲難し、と言われるはずがない」と非難してありますが、矛盾しませんか。
講師部に、どうしてこのように早く獲信出来る話をされないのですか、不思議ですが。

6  「獲信の記録」を出版したことは大変な間違いだったと、今は思っておられるのですか。もしそうなら、村人に謝って回られたのですか。あれは間違いです、正しい信心ではありませんでしたと。

7  お母さんの獲信体験談は、親鸞会の高岡会館時代に私は直接に他の人々と聞きました。テープも残っていますが、全く「獲信の記録」と同じ話です。
お母さんのこの時の、華光時代の信心は異安心なのですか。
親鸞会時代は同じ体験談ですが、正しい信心なのですか。

8  同じく、滋賀県のT岸○○○さんも、S52年「華光」誌に華光同人として、獲信体験談が載っています。今は親鸞会会員として、浅倉保講師がT岸さんをビデオ取材して、同じ話を多くの会員さんに、紹介していました。同じ人が華光会で言ったことは土蔵秘事に類する異安心で親鸞会へ来て語ったら、尊い話になるのはなぜでしょうか。


○こんな尊い著書をなぜ、親鸞会会員に紹介されないのでしょうか。
獲信の御縁には、ならない本なのでしょうか。

 

○高森先生

「顕正」
常に虎の説法124P

「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って、十八願の願意である、信心正因称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。ーー
手本はいかに信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。ーー
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて、信心を得る方法に称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなけらばならないである。

真仮廃立128P
「廃立とは、廃は捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、捨てものであり、廻向せられるものは名号六字である」

・三願転入は何処にもなく廃立が大事と教えてある。18願の世界に入るには、雑行雑修自力を捨てるには、19願の諸善、20願の念仏を励まねば廃らぬ、間にあわぬと知らされぬなど、どこを読んでも書いておられない。

「顕正」は昭和33年発刊。親鸞会結成の年だが、当時と今と説かれることが、違ってきているのではないでしょか。


○「これが獲信か金剛の真心に暗き哀れさ」のウソ

 取り寄せた、華光会の著書を読んで行くと、「これが獲信か」のパンフレットの悪意が読み取れるようになってきた。
 どこなのか、次回の体験談でお話します。
 親鸞会からの一方的情報だけを正しいと信じ切って会員さんにも徹底してきたことが悔やまれてきた。
 このパンフレットの為に、私は華光会に警戒心を抱き続け近づくことが出来なかった。


○増井悟朗先生に電話で質問する

 私は書籍を電話で注文するとき、まだ警戒して子供の名前で注文した。
 しかし読んで行くうち、質問したい気持ちを抑え切れなくなってきた。
 伊藤師はすでに亡くなっておられる。果たして増井先生は、ご健在であろうか。
 すでに80歳を越えておられる筈、若いとき結核で苦しまれたと本にあった。
 ご健在でも、初めての私と話して下されるだろうか。
 親鸞会では、高森先生に未会員が急に電話して話しなんか想像出来ないではないか。電話番号さえ知らされてない。
 しかし「念仏の雄叫び」「親指のふし」「廻心の体験」の内容に聞きたいことがある。
 どうか、どうかと思って華光会館へ電話を入れると、息子さんの増井信先生が名乗られて出られた。
「父は今、用事で出かけていますが、5時頃、帰ると思います」
と言われた。
 あっ、生きておられた、良かったー。話も出来そうな感じだ。
 6つにまとめた質問を5時まで何度も、どう聞くか復習した。
 5時に電話すると出て下さって、自己紹介し親鸞会の会員であることを正直に言った。本を読んで尋ねたいことがありますが、いいですか、と聞くと、どうぞと言われた。

1  阿弥陀仏の救いとは
2  三願転入するとは
3  宿善まかせかとは
4  ご本尊
5  華光会は土蔵秘事か
6  高森先生と華光会の関係


 1時間以上、時の過ぎるのを忘れて、私は質問して聞いた。
 増井先生は一つ、一つ丁寧に話された。

 増井先生の御法話テープのあることも分かったので、
 20本注文した。
「本願のこころ」「六字のいわれ」「二種深信」「光に遭う」「誓願不思議」「救済の予定概念」「罪悪感、無常観」「機法一体」「後生とふみ出す」「大経の構造」「二河白道」「白骨章について」「白道に入るまで」等

 親鸞会では信じられないことだが、90分1000円からあり、初めての人でも頒布していた。
 御法話はビデオ、DVDもあった。
(皆さんも注文されたら、いつでも聞けます)

・「これが獲信か」の非難(6)に「大衆の前では説法しない」はウソだった。

・親鸞会ではビデオ御法話テープのダビングしたら「死刑」と言われていた。除名、除籍は当然だった。結成30周年記念大会、「高森先生講演会ビデオテープ」は30万円もした。私の担当地区で一人求めた人がいた。

 御法話テープが届いてから、妻と隠れて聴聞を始めた。
 本も、テープも見つかれば、除籍に間違いない。
 増井先生は南无阿弥陀仏、六字の心を詳しく説いておられた。

○11月の本部報恩講に妻と参詣して聴聞した。
 高森先生は「聞其名号の名号を聞くとは仏教を聞くことです。
 たとえ、大千世界に満てらん火をも過ぎ行きて聞けと親鸞聖人は教えておられます」と言われた。
 仏法聞きに来ているのに、火の中かき分け仏法聞け、では答えになっていない。

・「たとえ、大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて、仏の御名を聞く人は、永く不退にかなうなり」仏の御名を聞けと、仰っているではないか。

・「聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」でないか。

・「この故に、一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信ぜしめんが為なり」御文章5帖9通六字の心を聞けと蓮如上人も仏教の究極を教えておれる。

・「会報」第2集52P-53P
「仏像を通じて仏心を受け取り、仏の真実を聞かなければならない。今も同じで南无阿弥陀仏の六字にこもる仏心を汲み取らなければ、名号の尊さを殺すことになる。それ故に名号六字は無量無限不可思議絶対の功徳を私達に受け取り易いすがたにせられたものであるから、我々は六字の名号を通して阿弥陀仏の仏心に直入しなければならない」
そう書いておられながら、この「会報」は廃刊にしてしまったのだ。何ということか。一体何を説き、何を聞け、というのか。

・南无阿弥陀仏の心は説かれなかった。阿弥陀仏の仏心にどうしたら直入できるのか、参詣者、特に長い間聴聞して来た人は聞きたいのだ。
 核心が完全にボケた話になってしまっている。私だけだろうか、このように感じるのは。
 私の心の中で、もうあかん、とハッキリした。
 南无阿弥陀仏の仏心を説けない人に、私は40年近くも聞いていたのか。
 増井先生の御法話との違いを、まざまざと知らされた。

・「こんな話どれだけ聞いていても助かりませんよ」と土蔵秘事の者は近づいて来て誘う、と高森先生は言われたが、その通りではないだろうか。分かっておられるのだろうか。自分のことだと。

・帰りに妻に「もうここへは聞きに来ないよ」と言うと妻も私も、と言った。理由を聞くと、同じことを感じていた。二人で親鸞会退会を決意した。

・退会となれば、40年近く御縁あった方達と近づくことは無くなるだろう。
親鸞会の中で生きてきた私達は孤立するに違いない。
「なんで、どうして、何をこれまで聞いていたの、恩知らず」
 あらゆる非難、中傷もあるだろう。
 しかし、私達は、今生で後生の解決をする為に生まれてきたのだ。
 あらゆるものの命を奪いながら、生かされているのだ。
 今度こそ仏法聞いて、本願を聞き抜いて、迷いの打ち止めを必ず果たしますと誓って過去世も求めてきたのではないか。
 生まれた途端に、そのことを忘れた生活の人が多いが、私達は、尊い仏縁に恵まれたのだ。何より有難い。
 いつか別れ行く人々との生活を楽しむ為に、生きているのではない。
 今のまま聞いていれば、活動していれば、宿善が厚くなって開発するんだろう、その内、その内と漠然とした聞法はもう出来ない。Tさんが身体をかけて教えて下さったのだ。
 ハッキリと説かれる方に出会えたのだ。このご縁はどんな非難があって問題でない。もう未練も、迷いもなかった。


○12月にもう一度、増井先生に電話した。

 親鸞会をやめて聞かせて頂きます、と言うと「親鸞会が助けるのでもない、華光会が助けるのでもない。
 これ皆、無常のものですよ。いつ、どうなるか分かりません。
 阿弥陀仏の大願業力に救われるのですから。
 来る人は拒まず、去る人は追わず、御縁ですから。
 親鸞会をやめるも、そのままでも、自由にして下さい」と言われた。
 高森先生以外の話を聞くな、本を読むな、除名だぞ、あまりにも、狭い狭い親鸞会と違い過ぎると思った。


○夫婦で支部長に「携帯用御本尊」をお返しして退会を報告した。

 驚いた支部長は「どうしてですか。高森先生のご恩を何と思っているのですか」と強く言ってきた。
 何十年も同じ講師部の仲だったから、支部長の気持ちは良く分かる。私も同じことを言っただろう。
 しかし頭が真っ白になっている支部長に今の私達の心を話しても到底、理解できない。高森先生しか見えないのだから。
 何も反論せず「お世話になりました」と言って帰った。


○遂に、阿弥陀仏の偉大な、強縁に引かれて私達夫婦は京都の華光会1月報恩講に参詣することとなった。

それからのことは、次回にお話致します。

 

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>>>   親鸞会教義の相対化

親鸞会教義の相対化・26 2008-04-04 14:18:29 

清森義行様


コメント覧に、私の投稿に対する反論らしきものが書かれていましたので、以下のように反証させて頂きます。

 

>親鸞会教義の相対化・22(投稿4)
>清子さん

私は、言語の構造上、意味を明確に確定できるサンスクリット文を読むことで、親鸞聖人の教えがサンスクリット文とも矛盾しない教えであることを示し、一方チューリップ企画の山田さんの説が、漢訳『無量寿経』からも親鸞聖人の言葉にも根拠のない説であることを提示しただけです。

漢訳『無量寿経』が現存サンスクリット本と別のテキストから訳されたことが、チューリップ企画の山田さんの主張の正しさを裏付ける根拠にはなりません。

貴方がすべきことは、山田さんの説を裏付ける根拠を提出することでしょう。
根拠を裏付ける説を出さなければ、「捏造・虚偽」ということになります。
以前、iitikoさんにわかりやすい喩えで教えてあげた通りです。
http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=98

ちなみに私は、大学・大学院と『無量寿経』を專門に研究しており、サンスクリット文もチベット訳も漢訳五本も全て読んでおりますが、山田さんの説を裏付ける文は、本願文にも本願成就文にも出てきませんでした。

山田さんの説は、やじりを地中に埋め自分で掘り出す途中で見つかったような、「思想先行型」にすらなってない、経典に基づかない「私説」です。

 


>親鸞会教義の相対化・23
>Nobodyさん

まず、私の友人は「浄土宗」ではなく「浄土真宗」の方です。
私が浄土宗だからと言って、私の友人を浄土宗と勝手に決めつけないで頂きたいものです(苦笑)。

私は浄土宗ですが、浄土真宗にも親鸞会にも友人はいますし、親鸞会を除名された清森さんとも親しくさせて頂いております。

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

 生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。

 

>親鸞会教義の相対化・24
>kkkさん

そうですか。印象操作ではなかったのですか。単に私に投稿を依頼した清森さんや、私の投稿の主旨が、理解できてなかっただけなのですね。

それは大変失礼しました。

ただし、貴方の論点スライドにおつき会うつもりはありませんので、私が別の所で書かせて頂いた文を掲載させて頂いて、貴方に対する解答にかえさせていただきます。

私が言いたいことは以下の通りです。

なお、どれだけ執拗に私の人格を攻撃しても、私の論に対する反証にはなりませんので悪しからず。


=================以下転載=========
========

まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

 

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

 

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。

 

・・・・・・・・・おまけ・・・・・・・・・

※三明・六神通について

まず、三明ですが、「明」は「知ること」だと思ってもらっていいと思います。
そんでもって、三つの「知ること」という超人的な能力を、仏様は獲得しています。

1)宿命明・・宿世(過去世)の因縁を知ること。自他の過去を知ること。
2)天眼明・・未来の果報(行為の結果)を知ること。自他の未来を知ること。
3)漏尽明・・煩悩を尽きた状態で、現在のものごとを知ること。

そして「六神通」というのは、「六つの超人的な能力」という意味ですが、上記の「三明」に以下の三つがプラスされます。

4)神足通・・自由に欲するところに現れる能力。
5)天耳通・・普通の人に聞こえない音を聞く能力。
6)他耳通・・他人の心を見通す能力。

これらを合体して、「三明・六神通」と言います。


サービスで三明がどういう感じでお経の説かれていたのかを、紹介しておきます。
(MN.vol.I,p.21f、中村元『ゴータマ・ブッタI』pp.412-414)

1)宿命明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、過去の生涯を想いおこす智に心を向けた。

こうしてわれは種々の過去の生涯を想いおこした。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

「われはそこにおいて、これころの名であり、これこれの死に方をした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。

2)天眼明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、諸々の生存者の死生を知ることに、われは心を向けた。

すなわち、われは清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賎なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なるものと不幸なるもの、として諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。

「実にこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、諸々の聖者をそしり、邪った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだ後で、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれる。
また他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、諸々の聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだ後で、善いところ、天の世界に生まれる」と。

3)漏尽明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、諸々の汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。そこでこの[一切は]苦であると如実に知った。

われがこのように知り、このように見たときに、心は欲の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。

解脱し終わったときに、「解脱した」という智が起こった。「生はききはてた。清浄行が完成した。なすべきことはすでになされた。もはやかかる生存の状態に達することはない」と知り終わった。

バラモンよ、これが夜の最後の部分において達せられた第三の明智である。ここに無明が滅びて、明智が生じたのである。闇黒を消滅して、光明が生じた。それがつとめはげみ努力精進励しつつある者に現れる如くに。

 

※※追記
ちなみに、法然上人が、「知らず地獄八熱の底にや、すみけん。恥ずるべし恥ずるべし、悲しむべし悲しむべし。」と仰り、その弟子の親鸞聖人が「地獄は一定すみかぞかし」と仰ったのは、どこまでも自分を厳しく見つめ、罪業観を深めていった結果、最終的に到達した境地であって、あくまでも自分の問題として仰ったものです。

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

という意味で仰ったわけでないことは、言うまでもありません。

=================以上転載=========
========


なお、貴方が「思考停止出来ない自分」に苦しむ必要は全くありません。
私の拝見する限り、十二分に「思考停止」されています。

今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

 

 

 

追記

清森問答のコメント覧を読ませて頂くと、読まれた方の不注意か、意図的な印象操作かはわかりませんが、私の投稿が、清森さんや意見として扱われている部分があり、清森さんにも大変迷惑であり、私としても極めて心外であります。

元親鸞会講師部さんが、ご自身の投稿を『私の白道』と題され、お書きになられた文章に責任を持っておられますので、私も、清森問答で私が投稿した部分を明確にし、その部分を『親鸞会教義の相対化』と題しておきたいと思います。

そして、今後、私の投稿した記事に対する批判・反論は、清森さん宛てではなく、私宛てに書いて頂いて、清森さんに送っていただき、清森さんから私に転送していただく形にさせていただきたいと思います。

そして、私の記事に対する批判・反論が私を納得させるものであれば、私も潔く、自分の主張を撤回して誤りを正していきたいと思いますし、私の記事に対する批判・反論が不当なものであれば、その誤謬を徹底的に指摘させていただきたいと思っております。

 

ちなみに、これまで清森問答に投稿した私の記事は以下のものです。

【1】(質疑応答33)
1)法然上人の神道に対する距離感、
2)信前の念仏の重要性を紹介し、
3)証空上人を「体失往生」に当てはめる主張を歴史的事実として説くことの問題点を指摘しました。

【2】~【5】(質疑応答43~46)
親鸞会の『法戦』を相対化し、
1)信前の念仏の重要性
2)浄土仮宗という主張の不当性
3)他宗に対する寛容の重要性
4)他宗教に対する理解不足といった問題点を指摘しました。

【6】~【12】(質疑応答49~51、53~56)
親鸞会の『教学聖典』を相対化し、
1)「さとり」の定義
2)小乗仏教・大乗仏教の定義
3)異熟因・異熟果の理解
4)釈尊誕生時の伝承と三界の定義
5)「後世の一大事」の理解
6)宿善と六波羅蜜の理解等に関する問題点を指摘し、
7)道綽禅師の言葉を釈尊の言葉として伝えていることの不当性を指摘しました。

【13】(質疑応答57)
コメント覧にあった私宛の質問に回答し、
1)釈尊誕生時の伝承と三界の定義
2)宿善と六波羅蜜の理解
3)『大集経』所説の末法について、説明させて頂きました。

【14】(質疑応答60)
コメント覧にあった私宛の質問に回答し、1)道綽禅師の言葉を釈尊の言葉として伝えることの問題点を説明し、2)法然上人における、「善」と五種正行に関する位置づけに関して解説させて頂きました。

【15】~【19】(質疑応答69~73)
親鸞会のアニメを相対化し、
1)MC(マインドコントロール)とカルトの基準
2)流刑と西阿の破門
3)「一向專念無量寿仏でないと助からない」という表現について
4)追善について
5)追善としての「還相廻向」について述べされて頂きました。

【20】(投稿2)
清森さんから、「一切衆生必堕無間」という親鸞会教義が、(親鸞会以外の)仏教や(親鸞会以外の)浄土門で、妥当なものであるかとの質問を頂きましたので、全く不当であることを指摘させて頂きました。

【21】【22】(投稿3・4)
清森さんのリクエストにお答えして、願成就文のサンスクリット文とその和訳を紹介させて頂きました。
そして、上記の願成就文のサンスクリット文から、チューリップ企画の山田さんの主張が、全く意味のない見苦しいものであることを指摘し、あわせて、「思想先行型文献学」の誤謬を批判させていただきました。

【23】
親鸞会のアニメを見た友人の感想を、私のコメントとあわせて紹介させて頂きました。

【24】
私に対して、脊髄反射レベルのコメントをしている方がいるので、そのコメントの不当性を、資料に基づいて指摘させて頂きました。

【25】
信仰を誤って受け取った際に発生する「狂気」の恐ろしさを、的確に指摘している友人の提言を紹介させて頂きました。

【26】
今回の投稿です。

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>>>   親鸞会教義の相対化

親鸞会教義の相対化・25 2008-04-03 12:46:54 

清森義行様


以下は、先日アニメの感想をくれた友人がお書きになった文章です。

親鸞会教義を相対化する上で、非常に多くの示唆を与えてくれますので、本人に許可を得た上で紹介させて頂きます。

・・・・・以下引用・・・・・


「熱狂について」

かつて、あるネット上の浄土教に関する掲示板で、「熱狂」について議論になったことがある。

ある人が、「熱狂」それ自体は問題ではなく、何に熱狂するかが大事だ、と主張していた。

それに対して、私は、「熱狂」とは、「熱意」+「狂気」であること、熱意は大事かもしれないが、狂気はいかなる場合もろくな結果は招かないこと、常に、熱狂の中に潜む狂気の危険性への批判を忘れたらいけないのではないかということを、主張した。


結局、平行線に議論は終わった。

その人は、ある信仰に本当に熱心ならば、熱狂するのが当然であるし、それに敵対する存在には憎悪が湧くのが自然であって、たとえ法然上人がなんと言おうと、そういう憎悪はとめられない、それは理屈ではない、と主張していた。

その人は、浄土門の流れを汲む宗派の方だった。

私は、この人はとても浄土門の人間だとは思えないと思った。


少なくとも法然上人の流れをきちんと汲む正当な浄土門の人とは呼べないと思った。

もちろん、個人的に見た場合は、その方は真摯な、良い人なのかもしれないけれど、少なくとも、法然上人の精神をきちんと汲んだ人とは思えなかった。

法然上人は、七箇条起請文で、他宗への憎悪や誹謗を厳格に戒めている。

そうした法然上人の、熱狂や不寛容への拒否を、きちんと受け継いでいないとすれば、それはもはや正当な浄土門ではないと思った。


ただ、そういう方は、いつの世も、多いのかもしれない。

まじめな人や、宗教に熱心な人ほど、そうなってしまいがちなのかもしれない。


宗教における熱意は、容易に熱狂に変化し、堕落してしまう。

洋の東西を問わず、その例の枚挙にはいとまがない。


そうした中で、一貫して熱狂を拒否し、清澄な信心を保ち続けた法然上人は、歴史上稀な人物だったと思う。

「熱意」を持ちながら「狂気」とは無縁で、終始一貫、澄みきった信心と寛容を持ち続けたその生涯は、宗教の歴史を振り返ると、優曇華の花か蔡花のように稀な気がする。


もちろん、法然上人以外にも、歴史を見れば、それぞれの形で寛容を説いた人物はさまざまにいたと思う。

エラスムス、ラブレー、モンテーニュ、ロック、ヒュームなどは、西洋における良い事例だろう。

日本でも、弘法大師は、法然上人とはまた違った切り口で、ある種の宗教的な寛容の到達点を示した人物だったと思う。


だが、信仰への熱意と寛容の両方を併せ持つことは、やはり非常に至難だと思う。
寛容に力点を置くと、しばしば信仰への熱意も失われてしまう。

たとえば、エラスムスやロックは、キリスト教への熱心な信仰と寛容の同居した稀な事例だけれど、モンテーニュやヒュームは事実上、宗教はどうでもいい領域に踏み込んでいたと思う。

日本における、宗教的寛容と思われているものの大半は、単に宗教への無関心や無知である場合も多いと思う。

一方、信仰への熱意を持てば持つほど、人はよほど気をつけないと、容易に寛容を失い、熱狂・狂気へと変わっていってしまう。


そうこう考えると、信仰への熱意と寛容をあわせもった人物は、歴史上を振り返ってもそんなに多くはない。

日本においては、弘法大師と法然上人が稀な白眉だったように思われる。

後世において、どの程度、そうした信仰への熱意と寛容は、受け継がれたり、深められたと言えるだろう。

ほとんど、進歩していないのではないだろうか。


宗教的な熱狂や狂気が、決して過去のものではなく、甚大な被害をもたらすものであることは、9.11以後の世界ですでに私達はあまりにも見てきた。

9.11の六年前にあった、オーム真理教事件も、宗教における熱狂・狂信が、いかに恐ろしい事態を招くかを、すでに世界に示していた。

宗教的な熱狂や狂気は、現代社会でも、決してすでに克服された問題ではなく、今現にそこにある問題だ。

これは、イスラム原理主義やオーム真理教などの、特殊な人々だけではなく、アメリカにおけるキリスト教原理主義やネオコンも含めて考察すべき事柄だろう。


「熱狂」を拒否し続けながら、信仰への「熱意」を保ち続けること。

「寛容」を保ちながら、信仰への「無関心」は拒否し続けること。

これは、案外に非常に難しい、今もって、至難のわざだと思う。


法然やエラスムスの叡智に学びつつ、もしそれが本当にできた時、現代という時代は、自らの時代の優曇華の花や蔡花を咲かせることができるのかもしれない。

もし、それができなければ、熱狂が生む狂気の瓦礫か、信仰を失った無機質な砂漠か、

そのどちらか、あるいは両方が広がる、索漠とした世界だけが広がっていくのかもしれない。


現代の白道は、おそらく、信心と寛容の両方を備えた、稀有なバランスの上にだけありえるのではないかと思う。

 

【追記】

半年後、この文章を読み直して、基本的な考えは今も変わらないのですが、今読んでみると、ちょっと書き足りていないと思える部分があります。

その方は、熱狂を肯定している点では、法然上人の寛容の教えからは逸脱している危険があるのではないかと、むかしやりとりをさせていただいた時は思いました。

しかし、個人的にはとても立派な方だと思います。
少なくとも、その後、浄土門以外の大きな宗教団体の方々とネットを通してやりとりさせていただきましたが、中にはその態度やマナーや知性に大変ひどいと感じる出来事が多々ありました。

その某宗教団体の方々よりは、少なくともその浄土門の方の方が格段に真摯で紳士的な態度を終始一貫持っておられたと思いますし、知性もマナーも格段に上等の、立派な方だったと思います。

半年前に、しかも個人的なブログで書いたので、少々語調が厳しくなっているところはありますが、その方は一方でとても生真面目で良い方だと思っているので、その点は若干の但し書きを付けておきたいと思います。


(以上)

 

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>>>   親鸞会教義の相対化

親鸞会教義の相対化・24 2008-04-02 13:46:02 


私の投稿に、私宛のコメントをされた方がいるので、その方にお答えしておきたいと思います。

 

>>質疑応答70
>>iitikoさん

『四十八巻伝』の記述では、「歴史的事実」を云々できないとのことですが、『四十八巻伝』以外の伝記資料にも、西阿が法然上人に破門されたという記述はありませんでした。

常識的に考えて、AさんがBさんを泥棒の罪で訴えた場合、Aさんに「Bさんが泥棒をした」ことを証明する義務があります。
立証責任を果たさないままAさんが、「Bさんが泥棒をした」と主張するならば、Aさんは、「虚偽・捏造を行った人物である」と言われても反論できません。

同様に、「西阿が法然上人に破門された」ことを裏付ける資料がないにも関わらず、ある人物や団体が、「西阿が法然上人に破門された」と主張した場合は、その人物や団体は、「虚偽・捏造を行った」と言われても反論できませんね。


それから、

>一念義の幸西が破門されたのは「歴史的事実」ですね。

とのことですが、

「幸西が破門された」という記述がある資料は、貴方様が資料的価値を低く扱っている『四十八巻伝』の巻29と、『四十八巻伝』より成立が遅く、むしろ『四十八巻伝』を省略して作製された可能性のある、『九巻伝』(『法然上人伝全集』pp.429-430)にしか存在せず、それらはいずれも、一念義を邪義とみなす鎮西派系統の資料であり、

より中立性・客観性を持った資料である、愚勧住信の『私聚百因縁集』、凝然の『浄土法門源流章』、『法水分流記』等では、いずれも幸西が破門になったということを伝えていないことは、ちょっと調べればわかることですから、おぼえておいた方がいいでしょう。

ちなみに、同じ「一念義」の行空の場合は、「十戒毀犯の業を勧め、恣に余仏の願を謗り、念仏の行を違失す」という理由を持って、罪科に問われ更に破門されたことが、『三長記』のような資料に出ているので、間違いなく法然上人に破門されていますが、

行空の場合は、

「念仏門には戒行がなく造悪を恐れない」などと主張することを戒め、

「制法に背く輩は、これ予が門人にあらず。魔の眷属なり。更に草庵に来るべからず。」

とまで法然上人が仰った『七箇条起請文』に違反したわけですから、破門されても仕方ないと思います。

法然上人は、師匠の身を気遣って進言した人物を、無慈悲に切り捨てる人物ではありません。

 

>>質疑応答71
>>iitikoさん

この際、はっきりお断りしておきますが、私の姿勢は、自分の「信仰」と違う「信仰」に対する寛容であって、自分にとって最も相応しいと思った「信仰」があった時に、それを示してくださった祖師の言葉が残されているのであれば、できるだけ正確にそれを理解していこうとしなければならないと思っています。

したがって、残された一つの言葉に対する解釈が二つ以上あったならは、より正確な解釈、より祖師の真意に近い解釈を、あらゆる手段を使って求めていこうとするのが、信仰に携わる者として、あるべき姿だと思っています。

私の主張は、そのような信念に基づき、知的誠実さを尽くし結論に達した、善導大師や法然上人の教義に基づく主張ですので、あたかも私が文化相対主義であるかのようにレッテルを貼って、私に対する人格攻撃をする行為は、善導大師や法然上人に対する人格攻撃であると認識してください。


ちなみに、iitikoさんは私の「信仰」に関係しない人物ですので、「iitikoさん独自の思想哲学」であれば、私は貴方がそれを信仰されるのを尊重しつつ、自分の「信仰」に関係のないものとして扱います。

ただし、「iitikoさん独自の思想哲学」を、「釈尊の教え」「法然上人の教え」「親鸞聖人の教え」として主張されるのであれば、私の批判対象となりますので、ご注意ください。

 

>>投稿2
>>kkhateさん

このコメントは、何かの印象操作でしょうか?

私は、「一切衆生必墮無間」という言葉や概念が、通仏教や法然上人や親鸞聖人の教えにないことを述べただけで、凡夫(プリタッグ・ジャナ、異生)が「輪廻する存在」であることは否定しないし、輪廻から脱することを仏教が目指していることも否定していません。

貴方が「一切衆生必墮無間」と思うのは全く自由ですが、それは貴方独自の思想哲学であり、それは親鸞聖人から教えていただいたものではなく、「これが釈尊の教えであり、法然上人の教えであり、親鸞聖人の教えである」と捏造して教えた方独自の思想哲学です。


先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、
「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


kkhateさんのコメントを読ませて頂くと、「浄らかな信」と「思考停止」の区別がついていないのではないかと思います。

 


以上、私宛のコメントをしてくださっている方にお答えさせて頂きました。

私は浅学非才の若輩者ですが、これでも知的誠実さを尽くして資料に基づいた発言をしており、自分の発言には責任を持っていますし、根拠のない発言は一つもしておりません。

したがって、私の投稿に反論するのであれば、脊髄反射レベルの反論やくだらない人格攻撃ではなく、資料に基づいて論拠を挙げた反論をしていただきたいと思います。

そして、その反論が筋の通った私の主張を覆すものであれば、素直にその意見を聞いて私の認識を改めさせて頂きますし、不十分な反論であれば、更に反証させていただこうと思います。


私は、何冊かの本やビデオを見たことがあるだけで、高森先生にお会いしたことがあるわけでもありませんし、実際に親鸞会がどのような活動をしているかは全く存じあげておりません。

ただ、私が心から尊敬する方が親鸞会に属しておられ、その方や清森さんを育てたのが高森先生であり親鸞会ですから、高森先生や親鸞会に、他にはない優れた部分があることは認めております。


ただし、

自分で地中に埋めた土器を、あたかも自分が発見したかのように装った某アマチュア考古学者のように、自分逹の教義に都合のよいエピソードを、資料に基づくことなく捏造する行為や、

それを指摘された場合に、素直に誤りを認め反省し訂正することもなく、論点スライドしたり、見苦しいいい訳をしたり、人格攻撃をする行為は、

知的誠実さのかけらもなく人文科学の根底を揺るがすような、卑劣極まりない行為であり、

このような行為を更に繰り返すならば、人物や団体としての良識を疑われ、信用を失墜し、言語空間から抹殺されてしまうことになると思います。

そして、そのような行為を行う人物や団体のために、法然上人の流れを受け継ぐ浄土門の教えが、世間から見放されてしまうような事態になることは、絶対に回避しなければならないと思っております。


私は、法然上人の教えこそ最も優れた教えであると確信しており、その教えを一人でも多くの方に伝えることが、自分に課せられた使命であると思っております。

しかし同時に、法然上人を心から尊敬し、自らに厳しく安易に妥協することなく、法然上人に問い続け、念仏の実践を詰まれ、他力の信心を獲得され、その境地を言葉に書き記し、人々をその境地まで導く道筋を明らかにされた親鸞聖人もまた、本当に素晴らしい方であると心から尊敬しております。

そして、その親鸞聖人の教えを一人でも多くの伝えようと、懸命に努力する人がいるならば、協力は惜しまないつもりです。

不思議なご縁を頂いて、清森さんという心から尊敬できる方と知り合うことができましたので、清森さんの要請を受けて、私が学んだ、仏教学・法然教学の視点から、親鸞会の教義を相対化させて頂いております。

親鸞会教義の相対化は、親鸞会内部にいては、見えない部分に光りを当てる作業ですから、親鸞会にどっぷり漬かった方には、反発したくなる部分も多々あるかと存じますが、いったん自分の枠組みを横に置いて、検討を頂きたいと思います。

そして、私が親鸞会教義を相対化することが、法然上人が伝えたかったものが、より正確に伝わることの一助になれば、これ以上の喜びはないと思っております。


南無阿弥陀仏

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>>>   親鸞会教義の相対化

親鸞会教義の相対化・23 2008-04-01 10:21:05 

清森義行様


友人にアニメの感想を頂きましたので、本人に許可を得て、紹介させて頂きます。


・・・・・以下引用・・・・・

あのビデオはすでに別のルートで全巻見たのですが、それでは、私も感想を書かせていただきます。

いやあ、あれは力作ですよ!
すっごい熱がこもってますし、いいアニメなんじゃないかなあと思います。

部分的な歴史考証は、いろいろ細かなミスはありますし、あと、ちょっと寛容よりも排斥に傾いているような気もしますが、

でも、いいビデオなんじゃないかなあと思います。

見ておいて損は決してないと思うし、有益なことも多いんではないかと思います。

ただ、あくまでアニメや教材としての位置づけにとどめておくべきで、それにとどめておくならばすばらしいけれど、あれをあんまり聖典みたいにしていくと、細かな歴史考証の部分の問題等々ありますし、アニメと現実の区分がつかないっぽくなっちゃう危険もありますから、ちょっと距離を置いて大事にすればいいんじゃないかなあと思います。

テレビや衛星でも、一度放映してみて欲しいです。

 

ビデオの気になった点は、またもう一度見直したらいろいろ気になるところはあるかもしれませんが、ざっと思い出す気になった点としては、


・一巻で、比叡山の堕落した僧侶たちが遊郭に遊びに行く時に「島原」という地名を挙げていたが、島原の遊郭街および地名そのものが江戸時代以降に成立したものだから、親鸞聖人の時点ではありえない。

・「赤山明神」を「あかやまみょうじん」と発音していたけれど、そもそも中国から来た神様ですし、一般的には「せきざんみょうじん」では?

・玉日御前は、一般的にはフィクションではないかと言われることが多く、少なくとも留保が必要ではないか。

・三大諍論も、他の資料がない以上、後世の伝承の域を出ないものであるし、まったく史実のように伝えるとしたら問題があるのではないか。
特に証空上人は、その後にのこされた教学からすれば、単純に「体失往生」とは言えない教えを説いている方なので、その点も留保が必要ではないか。

・「松虫・鈴虫」も、同様の事実はあったとされるが、それを膨らませた伝承と言われており、少なくともその名前は事実ではないのではないか?

・これはすでに清森問答で指摘されていますが、西阿破門のことも、史実からは言えないと思います。

・日蓮聖人がアニメに出てきますが、日蓮聖人が直接親鸞聖人に言及していることも、親鸞聖人が直接日蓮聖人に言及していることも、文献からはないと思います。
ですので、同時代ですし、活動範囲もかぶっているので、ひょっとしたら相互にその存在は知っており意識していたかもしれませんが、少なくとも資料に基づく限り、二人の交差は史実としては描けないのではないか。

・法然上人が、選択本願念仏集を親鸞聖人に示して、私のすべてをこめた本だという箇所がありましたが、はたして選択本願念仏集に法然上人のすべてがあると言えるのか。
法然上人がそう言っている言葉がそもそもあるのか。
その点は疑問です。

・これは間違いというほどのことではないのですが、親鸞聖人やその味方はハンサムな善人っぽい容姿で、敵対する人々は(法然上人の他のお弟子や日蓮聖人等々)なんとなく憎たらしい人相なのは、アニメだから仕方ないとはいえ、ちょっと逆の立場から見た場合には承知しがたいものかもしれません。
下手をすると、印象操作や、善玉悪玉を過度に二項対立的につくりだすことになってしまうかもしれません。

といったことが、ざっと思い出すことです。

他にももう一度見直したら、思い出すことや気づく点があるかもしれません。

これらは、ささいな点も含みますが、やっぱり気になる点です。

もし、あのビデオが、単に教材という位置づけで距離をもって眺めるのであれば、上記の諸点はほとんど気にならない程度のものであるかもしれませんが、ほとんど聖典のように扱われるのであれば、やっぱりちょっと注意した方が良いように思われます。

ただ、誤解して欲しくないのは、基本的にはとても良いアニメだと思いますし、もっと見る人が増えたらいいなあと思っています。


・・・・・引用ここまで・・・・・

・・・・・以下私のコメント・・・・・

同感です。

細かく時代考証や文献学に基づく批判をしていったら、いくらでもミスは指摘できますけど、せめて、私が清森問答で挙げたような問題点ぐらいのことに、留意しながら見ていけば、とてもよいアニメだと思います。

ただ、仰る通りあくまでも「教材」として入門用に使うべきであって、同時にきちんと典拠にあたって、学習を進めていくべきだと思います。

私が清森問答に投稿した文に、脊髄反射レベルの反論をしている親鸞会(と思われる)の人のように、時代考証や文献学に基づく考察よりもアニメを絶対視して、いびつな思考回路ができてしまう人になると、とても大きな問題が発生すると思います。

親鸞聖人が日蓮聖人に言及している資料は、私も見つけられませんでした。
創価学会などを「邪教」と名指しで批判している、親鸞会の教義上、加える必要があったのかもしれませんが、あのアニメのために、親鸞会の人に偏見やイビツな思考回路が形成されたなら、やっぱり問題ではないかと思います(苦笑)。

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>>>   親鸞会教義の相対化

親鸞会教義の相対化・22(投稿4) 2008-04-01 10:20:51 


サンスクリットから言えることは、

本願文・・極楽浄土への往生=所謂「体失往生」
本願成就文・・現世での不退転=所謂「不体失往生」=信心決定

であるということであって、親鸞聖人の仰っていることは正しいと言えますが、チューリップ企画の主張は、経文を湾曲した解釈であると思います。

ぐちゃぐちゃ何を言っても、『無量寿経』に書いてないことは、書いてないことですから、チューリップ企画の山田さんの主張は、一切意味がないと思います(苦笑)。


漢訳は言語の構造上、どうしても複数の解釈が出てくる場合がありますが、サンスクリットの場合、名詞・動詞・格関係が明記されていますので、読みはかなり精密に確定できます。

漢訳に基づいて構築された教義上の問題に、安易にサンスクリットの読みを適応するのもどうかと思いますが、漢訳から派生した強引で恣意的な読みの誤りを指摘するのには、サンスクリットを挙げるというのは、大変有効なのではと思います。

 

自分の中にあらかじめ構築している思想に基づいて、恣意的に文献を読む「思想先行型文献学」は、文献学を裝った疑似文献学であって、そのような姿勢で文献を読んでも、決して文献を読んだことにはならず、結局は自分の思想哲学を構築しただけにすぎない!!

学生時代から、私が師匠にたたき込まれた文献学の方法論です。
バリバリの文献学者の師匠が、法然上人門下なのは、法然上人が、今日でも通容する文献学の方法論に基づいて、絶対に「思想先行型」にならずに、経典を読んでいるからだと思います。

自分が気になる問題点を意識しつつ、絶対に結論を先に出さないでテキストを読んでいかれたのが、法然上人や親鸞聖人の姿勢だったのではないかと思います。

親鸞聖人の教えを伝えるのであれば、やはり親鸞聖人がされたように、凡夫の身である己の恣意的な解釈やはからいを捨てて、素直に経典や書物を読んでいくべきだと思います。

経典や法然上人や親鸞聖人の言葉を挙げると、それがそのまま会に対する教義上の批判になる団体は、やっぱり問題があるのではないかと思います。

 

少しずつ、『会報』を読ませて頂いております。
一部に伊藤先生のパクリがあることを差し引いても、とても素晴らしい本であると思います。

清森さんが仰るように、素直にパクリを認めて、引用出展を明記して、堂々と出したらいいんだと思います。

 

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>>>   私の白道

私の白道・4(投稿5) 2008-03-31 21:58:04 


  (  私の白道)

   1回 3月10日質疑応答74
   2回 3月16日質疑応答80
   3回 3月20日投稿 1
   4回 3月29日投稿 5       元 親鸞会講師部


      皆さんの中に私の発言を憎々しく読んでおられる方もあると
      思います。
      長い間、高森先生、親鸞会にご恩を受けながら、しかも信を
      獲たように言いながら、信じられない言動だ、偉そうに言うなと。  
      歎異鈔6章にも「自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、     
      また師の恩をも知るべきなり」とあるのを、よもや知らぬはず    
      はなかろうにと。      
      心情は痛い程よく分かります。
      私も何度やめておこうかと思いました。
      名前を隠していても、話が進めば、具体的になれば、いずれ     
      分かり、煩わしいことも予想され、悩みました。
      しかし、30年聞いても分からんと泣かれたTさんは次の年の
      1月に亡くなられました。後で知って自宅へ伺いました。
      どんな思いで亡くなられたのだろうかと思うと、真実伝える    
      ことの出来なかった自分を謝らずにおれませんでした。      
      また獲信後、どうしてもお伝えせねば、と尋ねた一人暮らしの    
      Mさん(80歳過ぎの女性会員)は、すでに5ケ月前に急に亡く   
      なっておられました。遅かったーと泣きました。
      20年以上求められ、本部、地元御法話と週に3回必ずお参り   
      し、それでも「後生が心配だ、でも分からん、難しい、私には
      無理ですかね」と何時も言っておられたのが耳を離れません。   
      ああ折角、仏縁に恵まれたのに、南无阿弥陀仏のみ心を知ら    
      ずに去っていかれるのを、阿弥陀仏は身を切る思いで悲しん    
      でおられる。
      十劫の昔から、どうしたら聞いてくれるか、こうもしたら分か
      ってくれるかと、あの手、この手のご方便なされて、待って、    
      待って下されているのに、その御心が伝わらずにーーー      
      泣いて死に行く人以上に泣いておられる。 
      黙っておれない、これではご縁ある方も今のままでは同じことになる。
    
      私のご恩は、如来大悲のご恩が、何より先です。           
      すること、言うことが高森先生の批判になろうとも、私は     
      それで阿弥陀仏の御心を知って頂く方が現れるなら、甘んじて    
      受けて行こうと思います。
  
      空ごと、真実ないこの世に、どんなことがあっても、この
      弥陀だけは捨てないぞ、あてにせよ、まかせよと抱き摂っ
      て下さった、未来永遠のあてたよりになって下さった嬉しさ、
      このご恩は、人の非難位で曲げられません。
      分からぬ人には、分からないでしょう。            
      高森先生なら、そういうものだと、分かられるでしょう。      
      だから本気で書けるのです。

      質疑応答88も読ませて頂きました。有難く思います。
      それでは、大沼氏、伊藤氏の著書を読んで、何が分かっ
      たのか、お話致します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   
     
      (大沼法竜氏)1895年生(明治28年)北九州の在家
      に生まれる。お母さんが熱心な真宗門徒で大きな影響を受
      ける。  
      大正10年3月仏教大学本科卒業。
      昭和51年2月死亡(80歳)    
    
      宗教法人「親鸞会館」を設立、代表役員として活動。       
      著書に「おやごころ」「本派本願寺の危機 どちらが       
      異安心か」「法界」「教訓」「随想録」「明暗」他多し

    ・ 大沼氏は獲信した、と自ら告白し、本願寺は法の有難さばかりを   
      説いて門徒を喜ばせているが、間違っている、と本願寺を相手   
      に論争した本願寺派僧侶です。その為に破門されました。      
      大沼氏は、三願転入してこそ救われる、またその法を聞く
      私とはどんなものか。逆謗の屍であり、その本願を疑う
      怖ろしい疑情があるではないか。 
      なぜ、弥陀に救い摂られる信前信後、一念の体験を本願寺は
      明らかに説かないのか。  
      皆、疑いも知らず、素直なものと自惚れている、無帰命安心の
      人々ばかりだ、と全国を説いて回り、著書を多く出版し、当時
      有名な人でした。
      信者は全国に居ました。高齢な人に時々、会いました。       
       
      「本派本願寺の危機 どちらが異安心か」は痛烈に批判して    
      出した本です。「どちらがウソか」の題名によく似ています。

  ○  盗作の事実

    ・ 福岡県の敬行寺に電話して、絶版以外の残ってい16冊全部
      を取り寄せて、読み始めた。
      付箋紙を用意して、高森先生より聞いた話、著書で読んだとこ   
      ろがあれば貼っていくと、すぐさま100枚の付箋紙がなくなり、   
      また用意した。  
      読んで見た方なら、分かるでしょう。それほど多く驚いた。     
      どんなところか「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の「高森     
      顕徹氏の著書のルーツ」にも出ているので、参考に見て下さい。   
      ここには、多くて書きようがありません。

      「会報」「こんなことが知りたい」「光に向って」
      「アニメの台詞」「お葉書のお歌」「教学問題」等など

      盗作しないものはない、と言っていいほど、よくこうまで
      熱心に盗作作業をされたものです。
      高森先生の手元には、大沼氏の全集全巻が揃っていて、付箋
      紙がびっしりと貼られ、赤線で真っ赤だ思います。

  ・   一例に皆さん、まさかと思われるでしょうが、黒板に必ず書か    
      れる、縦と横線の求道線も、大沼氏のオリジナルで、写真が載っ    
      ています。 
  ・   「光に向いて進む者は栄え、闇に向いて走る者は亡ぶ」      
      「法界」382Pに書いてあります。 
  ・   「美人も笑顔忘れりゃ 五割り引き」のお歌も、「明暗       
      2800首」の中の一首で、美人をべっぴんに変えただけで    
      す。そのままの歌も多いです。2800首もあれば、いくらでも   
      発表出来ます。打ち出のコズチがあるのです。
      

      皆さんが講師、大講師の教学試験の時、苦労して覚えた
     「会報」や、高森先生のご教導だと感激して読んだ著書、
     「お身体、大変な中を私達の為に作って下さったお歌ですよ、     
      もっとアニメを出しましょう」と言われ、申し訳ないと   
      頭下げて頂いたお葉書も、ネタは大沼氏からの盗作部分が
      多くあったのです。


   ○   なぜ盗作するのか

   ・  読んで感動し、勝れた文章であり、自分にはとても書けな
      い。素晴らしい先生だ、信心だ、人徳だと、認めているから    
      です。  
   ・  しかし、誰の文章か発表しなければ、皆さんは自分の文章と     
      思われ、尊敬される。
      非常識とは知りながら、名誉欲に負けるのです。   
   ・  盗作した以外の文章を読まれると、都合が悪い個所がある    
      ので、盗作の事実を隠す。読ませたくない。
   ・  著者、著書を紹介すると読まれて、高森先生以外にも尊い
      先生がおられることが分かり、噂は広がり、自分だけが
      唯一人の善知識と思われているウソがばれてしまう。
      ショックを受けた会員さんの中で、そちらへ行く人(退会者)
      が増えるからではないでしょうか。


  ○   なぜ盗作が悪いのか。
      
      前回お話しましたが、講師部に人のものを盗ってはいけない、   
      悪だと教えられたからです。人にそう言っておりながら自分    
      が盗めば、誰もその人を信用しなくなります。
      説かれる法にも傷がつくのです。 
      人間は信用が大事、徳が大事、信用の無い人の話は誰も聞きた   
      いと思わないだろう、と自ら言われているからです。

      「招待されて行った家の控室に通されたら、絶対にそこの
       物を触るな、動かすな、絶対だ。後でその家の人がおか
       しいな、触ったなと分かると信用を落とすのだ」と具体的
       に厳しく、信用をされる人間になれ。10年20年とかか
       るが、崩れるのはすぐだ、気を抜かず努力せよ、と講師部    
       は教えられた。忘れた人はいないでしょう。

      仏教のいい話だから、誰のだろうと盗作でなく紹介されたの
      だ、悪いことでは無い、高森先生のお陰で私はよく分かって
      よかったと思う人もあると思います。 
      しかし、親鸞聖人はお聖教を書かれる時、必ず根拠を出して    
      おられます。どなたの書かれた何というお聖教かです。      
      教行信証を少しでも拝読すれば分かることですよ。
      尊いお言葉は、その人の命がけの求道より体得された叫びで
      あり、命なのです。
      どれほど感謝しても足りないご恩を感じられたからです。
      仏法者として、当然ではありませんか。
      黙って自分の文章の如く書けますか。。      

      学問、研究、文学、絵画、音楽など、世間でも盗作者は大変な
      非難を浴びて社会的信用を無くするのは、皆さんご存知ですね。  
 
      そんな常識すら、分かられないのでしょうか。
      恩を知れ、といつも厳しく教えておられるのに、悲しくなりまし
      た。

   ○  ごまかし体質

    ・ 退部する少し前に、講師部会合で、お葉書の言葉(歌)を覚
      えているか、書きテストがあった。 
      40首位の空白部分を書くのだが、覚えていない者を高森
      布教局長が「講師部員がお歌を覚えていなくて、それでも      
      講師部か。ご苦労して作って下さったのに御心がそんな
      ことでお伝え出来るのか」と立たされて、点数の悪い者から
      順に厳しい指摘が始まった。
      ところがしばらく日がたち、「パソコンに残っているお歌を
      全部、削除しろ、ひとつでも残っていれば厳罰だ」と指示が
      来た。なぜか、など誰も質問しない。
      高森先生の指示に決まっており、理由を聞く事自体、問題に
      される。
      講師部聖則「講師部は会長先生のご指示に無条件に従い、信心   
      獲得を本と致します」に反する言動だからです。
      盗作がどこかから、ばれて証拠隠滅だったことは想像できる。  
      自分の問題はことごとく、このように隠されてゆく体質である。

    

   ○  読んで分かった問題点                    

   1  私は大沼氏の著書を読んで、すごい学問と文才の先生だなと
      思いました。
      湧き出る泉の如く、言葉の洪水というという感じで圧倒されます。 
      親鸞聖人のお言葉以外にも、「教訓」(光に向って、に多く盗作)  
     「明暗」(お歌2800首)と才能は広く、高森先生はことごと   
      く大沼氏の真似をされたことが分かりました。       
      著作権などの法律的問題はさて置き、ここまで真似る執念     
      に感心しました。高森先生は真似上手と分かりました。

   2  私は高森先生より聞かせて頂き、40年を過ぎました。      
      その間、高森先生の説かれることが変化していることに      
      気付きました。    
      講師部暦の長い人は分かりますか。会員暦の長い方は分かり    
      ますか。ゆっくりと時間をかけて変化しているとわからない
      ものです。
   
      大沼氏と高森先生の著書とを比べて読み込んいく内に、これは大変だ
      と思うことに気付きました。                
      高森先生の「会報」「顕正」その他の著書にも三願転入という   
      言葉で強調して、書かれたところはありません。
      三重廃立で教えらています。ここばかり聴聞して来ました。    
  
   ○  三重廃立と三願転入


  ・   高森先生「会報 第5集」44P
     「覚如上人は聖人の意を「改邪鈔」に「真宗の門に於ては
      幾度も廃立を先とせり」と申され、蓮如上人は「もろもろ
      の雑行雑修自力の心をふりすてて後生助け給えと弥陀たの
      め」と御教示になさったのである。---その廃立すべき
      ものに三種あるから、三重廃立といい、これをしなければ
      絶対に助かることがないから、親鸞聖人の「教行信証」には
      厳しく、それが説かれている」

  ・   私の30年以上前の高森先生の教学講義、講義録
     (真宗学4号12問)に以下のように記している。        
 
      問い 善知識の使命を示せ。またその聖教上の根拠も       
         示せ。

      答え 善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命し
         たてまつるべしと人を勧むべきばかりなり
         (御文章 2帖目11通)


      高森先生「三重廃立しなかったら、一心一向に弥陀に帰命す
      ることは出来ない。聖人の教行信証も一口で言えば三重廃
      立になる。善知識の任務は、三重廃立以外にない。三重廃立
      さえ徹底してゆくと必ず信を獲る」と書いてある。


   ・  しかし、大沼氏の著書はいたるところに「三願転入」して     
      こそ救われると強調して書かれている。
     
      大沼氏「広大難思の大慶喜」241P
   
     この三願転入をせず、第十八願だけでよいと言う人は、二尊や
     聖人より偉い人なのです。
     阿弥陀さまはいらない願を建てられたか、釈尊は不要な説法を
     されたか、聖人自らの体験が三願転入であるが、他の道を通っ
     て聖人と同じ報土に往生ができるでしょうか。       
   

   ・ しかし、大沼氏の説くところは高森先生と絶対合わぬところ
     があったのです。  
     (化土往生です)

      大沼氏「法界」152P-154P
    
     「計らいのない人は一人もいない筈だ。計らい尽きて親に計らわ   
      れていた事に驚いて捨自帰他した一念の徹底する迄は、皆信前    
      をうろついているのだ。その間に死ねば漏れなく化土往生だ。
      しかし化土に往生する人は疑心の善人であって吾々は悪人だ
      から化土に往生の出来る筈がないと言う人が有るが、化土へ
      行かれない位の者が至極の報土往生の出来る筈がない。ーー    
      平生業成、現生不退、明信仏智の体験のない人は如来広大の    
      恩を迷失しているのだ。
      雑行、雑修、自力、疑心の桁を離れ切らないのだ。      
      離れ切らなければ化土の結果は免れないのだ。」

     「報土の信者おおからず 化土の行者かずおほし
      自力の菩提かなはねば 久遠劫より流転せり」(正像末和讃)   
           
      大沼氏「方便より真実へ  浄土真宗」411P
      (みな化土往生ですよ)
      「自力の執着の除かれない間に死んだ人が化土往生し、絶対他力  
       になった人が報土往生をさせていただくのですから、化土往生  
       は階段ですから、易いのです。」

   ・ この説に対して高森先生の反論はすざましい。

       高森先生「会報 第5集」59-61P
  
       「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に     
       見当たるのか。
       どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。
       真宗の道俗はさも易く「あれはまだ十九願だ」「あれは
       二十願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら
       言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない
       人達ばかりだから本当の十九願の行者、二十願の行者は
       真宗の道俗には、いないといってよいのだ」     

       「ここで特に注意しておかねばならぬことは、真宗の
       道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死
       ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し、同行の
       求道心をさまたげている人がいるということである。      
       これは許すことの出来ない正法の怨敵である。         
       三機のところでも述べたように 十九願の邪定聚の機なら    
       ば化土でも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、その     
       ような者は見当たらないから化土往生どころか必堕無間     
       こそ間違いのない後生である。若し、信前の者も、求め     
       てさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体     
       に成仏出来るのなら、後生の一大事は立たない。         
       後生の一大事、生死の一大事の立たないところに仏法、     
       また成立しないのである。       
       若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、
       親鸞聖人は、なぜ「たとえ、大千世界に、みてらん火をも
       すぎゆきて仏の御名を聞け」とおしゃったか。         
       蓮如上人も「御文章」の各処に「この信、決定されずんば    
       極楽には往生せずして化土へ参るべきなり」といわれずに    
      「無間地獄に堕在すべし」と教えられている。」

       (徹底して化土往生は出来ないと教えておられたのである。   
        覚えておいて下さい。
        これは大沼氏への批判ではないでしょうか。)
        しかし、大沼氏はこう反論した)
  
   ・     大沼氏 「八万の法蔵は聞の一字に摂まる」131P

       「化土往生ができる」なんて言えば「われわれのような者
       は自力の修行が出来ないから、化土に行かれるものか。
       化土へ行くのは、自力の修行をした人が行くのだ」と言う
       人がいるだろうが、あなたは自力が出来るか、出来ぬかや
       ってみたことがありますか。ーーー       
       まだあなたは、19願の入り口ですよ」

       (やってもいない者がいうな。入り口とは講師部にも言われ   
        た言葉の元がここにあったようです)

 

   ・     大沼氏 「昭和の歎異鈔」322P
   
       「たとえば買い物の荷物を子供が持つと言ったとき、持て
       ないこと承知の上で親が荷物の下に手をすけ、子供は真っ
       赤な顔をしてーーー」

        (自力一杯、善をやった者が出来ないと知らされ、次の
         20願へ行くのだ。何度も聞いた、この譬え話も皆
         大沼氏のここから出ています。とにかく盗作が多い)


    ・  大沼氏の本を読んでいて思い出したことがある。
       先輩の親鸞会元講師に岐阜県の寺の出身者で龍谷大学卒業    
       の佐藤講師がおられた。(退部後、交通事故で亡くな
       られたと聞いた)      
       その佐藤講師から忘れられない話を30数年前に聞いた。    
      「僕は龍大へ行って親鸞聖人の教えを学んだけれど、今の     
       本願寺では無帰命安心で駄目だと思ったよ。          
       それで、本願寺が駄目なら、その本願寺に破門された人     
       なら本当の方かもしれないと思って、当時本願寺と喧嘩     
       していた大沼さんのところへ聞きに行った。    
       大変な学者でもあり、話も真剣だったから聞いた。       
       しかし、三願転入の話になり、真剣に求めている人は、      
       信前の19願、20願の人だから信心決定していなくても    
       皆、化土往生だといわれて驚いた。    
       これでは、極楽は無理でも化土往生なら有難いと座ってしまい、  
       求めようとする気にならない人も多くなる。          
       聞いている人には、獲信してなくても後生の一大事がない    
       ことになる。これではあかんと思った。     
       もうお一人、本願寺を非難している人が高森先生だった。    
       本(会報)にも化土往生を言うものは正法の怨敵とあった    
       ので高森先生より聞かせて頂くことにした」
       ここまでは、随行文を聞いた方なら覚えておられるでしょう。
       そして話を続けて   
       「これは内緒だよ、誰にも言わんといてほしい。       
       まさかと思うけど、高森先生の生きておられる時には、
       ありえんと思うけど、三願転入を言い出す者が現れて
       化土往生出来ると言う者が出て来ないとも限らん。        
       お聖教上は、化土往生は説かれているからね。          
       実は高森先生の話や、書かれたものに大沼さんの本から     
       のものが多くて気になるんや。気になる。ここだけの話やよ」  
       えーと驚いた。具体的にここが盗作とは聞かなかったが、    
       当時はカチン、カチンに高森先生を信じていたから、絶対    
       そんな心配はない、三重廃立しか話されていないからと     
       思っていた。

  ○    三願転入の説法始まる

   ・   しかし平成5年の「親鸞会結成35周年大会」で遂に、     
       三願転入の説法が開始されたのである。驚いた人は       
       どれだけあったでしょうか。

       「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。
        我々に19願、20願いらぬ、18願だけでいいと
        公然という学者もいるが、皆 三願転入を根基として
        書かれている。御和讃もそうだ。
        十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19、
        20願通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
        (平成18年4月30日 教学講義にもそう言われた) 

     
    ・ 佐藤講師の心配が的中してゆくのだろうか。     

   ○  「会報」の廃刊はなぜ


       「会報」は平成9年「私の道」として出版されると顕正     
        新聞に発表されましたが、未だ出版されません。        
        また、「現代仏教界の最高峰に位置する著書」と言わ
        れた「会報」は廃刊になってしまいました。
       
        大沼氏、華光会の伊藤氏の著書の盗作がインター
        ネットに「どちらが先か」と問題になり、批判を浴びて
        廃刊になったのが真相だと言われていますが、例の如く
        高森先生は理由説明責任を放棄されたままです。       
        もちろん講師部は誰も聞けません、知りません。
        しかし親鸞聖人の重要な教えが書かれた「会報」を捨てる
        人はないでしょう。私も今も持っています。
   
    ・  教学問題 真宗学4号 問い49

       今は教学聖典ですが、以前は教学問題と言われました。

     (問い) 真宗は0点か100点かの二通りしかないことを     
          教えられた和讃を一首かけ      
     (答)  専修の人をほむるには  千無一失とおしえたり
          雑修の人をきらうには  万不一生とのべたもう
                     (高僧和讃) 

       この問題は教学聖典から無くなっています。
       削ってもいい内容でしょうか。  
       0点か100点 それ以外の人は無いという話でしたが     
       この問題は何か都合が悪くなったのでしょうか。
       化土へ行く人は0点とは言えないからでないでしょうか。

    ・  まだ「信前の会員でも、私の法話を聞き、参詣、財施、顕正   
       の諸善、活動に頑張っている人は皆、化土往生です」
       と正式に言われません。
       しかし25年前、高速道路を逆走行してトラックと正面衝突し  
       即死した、細川、松田両講師の死に対して高森先生は      
       「私は二人の後生は心配していない。臨終に観音菩薩の
       説法にあったと思う」と言われた。
       細川講師は過労のあまり、福井県のパーキングで仮眠し、寝
       ぼけて、来た道を戻って逆走行したのだ。
       松田講師は助手席で寝ていて即死した。こんな状態で観音
       菩薩の説法にあえるのか、当時おかしいと思ったが、親しい
       友だから、そうであって欲しいという感情が入り、何となく
       納得してしまった。本当ですか、と高森先生に聞く講師はいな
       かった。
       先生がそう言われるのだから、と思ったもです。       
       善知識高森先生に絶対間違いはないのですから。        
       私らに分かるはずがないのですから、と思ってしまった。


     ・ 昨年の香港御法話でも、真剣に求めている人は観音菩薩の    
       説法にあえると言われたとか。
       感動した会員さんが、手紙に書いて来た。 
       根拠がどこだろうか、そんなことどうでもいい、高森先生
       が、そう言われるのだから、それでいい。

     ・ 20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」    
       と言われるはずがない  (これが獲信か、7P)    
     ・ 雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。  
                 (教学講義)
     ・ 信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、
       ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られ
       るもの、ということが明らかです。ーーー
       我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得ま
       でには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長い
       リハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました    
          (昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上)
     
     
   ○   親鸞会はどこへ行くのか  

       平生業成 現生不退 一念往生のみ教えは会員さんの心に
       本当にあるのでしょうか。
       看板だけか、人に入会をすすめる文句だけになったのでしょうか。


     ・ 阿弥陀仏はなぜ一念で救うという本願を建立されたのか。

       「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり、若し多念を
        もって本願とせば、命一刹那につづまる無常迅速の機、
        いかでか本願に乗ずべきや。
        されば真宗の肝要、一念往生をもって渕源とす」
         (口伝鈔)
      
       「聞思して遅慮することなかれ」(親鸞聖人)」

       「明日も知らぬ命にて候に、何事を申すも命終わり候わば
        徒事にてあるべく候。
        命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて
        後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」
                      (蓮如上人) 
     
       阿弥陀仏の御心を伝えられた真の知識のお言葉を、今こそ
       深く思うときではないでしょうか。          

    ・  宗教法人「親鸞会館」も館だけの違いですね。 

    ・  高森先生は「私は親鸞学徒です」と言われますが
       これでは「大沼学徒」と言われても仕方がないのでは
       ないでしょうか。    

    ・  高森先生の後、親鸞会はどうなるのか、誰の話
       を聴聞すればいいのか、高森布教局長では無理だろう、
       という話をよく聞きました。       
                   


   ○   これからの親鸞会を考えるだけでも大変なことでしたが、
       華光会の伊藤氏の著書を読んで、それ以上の衝撃が走りました。 
       次回で書かせて頂きます。 

 

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>>>   私の白道

私の白道・3(投稿1) 2008-03-31 21:53:35 

以後、投稿のメールの紹介は、タイトルを「投稿」にさせて頂きます。

          *          *          *

私の質疑応答を読んで頂き有難く思います。

今後「私の白道」と題して書かせて頂きます。

1回3月10日質疑応答74
2回3月16日質疑応答80
3回3月20日今回

・元親鸞会講師部

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○講師部の現状に失望し、自身の求道姿勢(講師部聖則4-常に求道姿勢を正し、会員の模範となります)にも自信を無くした私は、退部してからも、高森先生の説かれることだけは真実だ、こんな私でも救われる道は聞くしかないと思い、働きながら本部会館の高森先生の御法話、教学講義、アニメ解説に続けて参詣しました。

 そんなある日、私がよく知り、講師部の時お世話にもなった方(男性)が癌でもう聴聞に来られないことを知りました。

 80歳過ぎで、30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。

 財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。


・2月に見舞いに自宅へ行くとベットに横になり、変わられた姿に驚きました。
 そして開口一番、「こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったーた弱ったー」でした。

 自分の病に気付いておられるなと直感しました。
 もう世間並みの見舞いの言葉なんか言っておれない。
「Tさん、本部で座っているだけが聴聞ではありません、なにを聞いたかです。何を聞いて来られましたか。こうなったら、これまで聞かせて頂いたことを思い出して下さい。私も聞かせて頂いた事を話に来ますから、このベットの上が聴聞会場ですよ」

 私はこの時、このTさんに数十年聞かせて頂いたことをお伝えしよう、亡くなった父と同じ年齢のTさんに何とか救われてもらいたいと思いました。

 それから本棚に積み上げてあった高森先生の「会報」「こんなことが知りたい」「法戦」など仕事以外の時間は読み続け、ここを話そうと思うところをコピーし準備しては月2回程行きました。

 何を話しても、Tさんも30年近く聴聞をしてきた方ですから私の話することは全部分かるのです。話するのも、Tさん体調からは1時間が限度でした。

 しかし「無常観をとりつめたら後生の一大事の驚きがたつだろうと、今死んだらどーするー、と思うけど、まだ死なん、まだまだとしか思わん」と頭を叩かれ、
「罪悪感をとりつめようと、自分の悪をいろいろ思うが、もー悪い奴やと思えん、こいつが」と腹を叩かれた。

「こんな者どうすりゃいいんですかー、教えて下さいー、助けて下さいー」と遂に男泣きに泣かれ、私の腕にすがりつかれた。

 私はこの時、自分の慢心に気付いた。よし俺が導いてみせようとは、何たる傲慢。Tさんは目前の後生に命がけに取り組んでいるのに、覚えた教学、読んだ要で何とかしようとは、自分こそ後生の一大事が全く分かっていないではないか。

 まだ教える立場で考えて、自分の問題にしていないではないか。お前はまだ講師様か、何という馬鹿者だ、俺は。

「阿弥陀様が分からーん、どう信じたらいいのか、どう思ったらいいのか。私みたいな者は助からんのか。あー私は宿善が浅いから助からんのや。

 高森先生、申し訳ありません。もっと宿善求めて頑張ればよかった、済みませんー」とまた号泣された。

 かって数十年前、谷本貞三さんも同じ癌で入院し苦しまれた時、浅倉講師が見舞いに行き、高森先生は何度も葉書を出されて阿弥陀仏の御心を伝えられ臨終間際に救い摂られた話は有名でビデオにもなっている。

 その葉書の文句も見せて話するが、読んでる肝心の私がその意味が分からない。
 その時の私は三願転入しか頭に無く、宿善求めて、19願、20願と信仰進んだ宿善厚い谷本さんだからこそ獲信されたのだろう。宿善浅く、読んでも意味が分からんと泣いておられるTさんには無理な言葉だったのかとしか思えず、言葉が無くなってしまった。

 私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。仏法を聞き始めて数十年、私は初めて人に念仏を勧めたのだ。

 Tさんは驚いたように「念仏称えて助かるですか、いいんですか」と聞いてきた。
 親鸞会で信前の念仏は助からん、本願寺は念仏称えて死んだら極楽、死んだら仏と教えを捻じ曲げていると、30数年聞かされてきたTさんは始め躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。

 3分ーー5分ーー念仏と共に何の涙か分からないが止まらない。一緒に泣きながら念仏を称えた。

 Tさんの姿は私の姿だ、決してTさんだけの姿ではない、親鸞会会員さんも皆平生業成の身に成らなければこうなるのだと深く心に刻んだ。

 病気の進行は早く、Tさんは自宅から病院へと移られ私も病院へ通ったが、行くのが辛かった。行く度落ちてゆく体力、10分間聞くのも脊髄へ移転した病魔に苦しみ話が中断する。

 こんな身になって諸善なんか勧めておれない。しかし念仏勧めるが心は依然として暗い。

 色々悩んで、仏願の生起本末に絞って話しすることにした。A3用紙にまとめ上げて話し始める。

・仏願ーー阿弥陀仏の本願
     どんな人をも
     必ず助ける
     絶対の幸福に

・生起ーー悪業煩悩で罪を造り、因果の道理で後生は一大事、地獄行き間違いない自分である。ここが目当てです。三世の諸仏が呆れて見捨てられた私です。

・本末ーーそれを救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏にはその力がある。この世で絶対の幸福の身になれる。

 しかしいくら話しても、南無阿弥陀仏が分からない。どこが功徳の大宝海なのか、どうしたら、いただけるか分からない。
 阿弥陀仏の本願はお伽話と思わないけれど、阿弥陀仏が身近に感じられない。お勤めが嫌だ、早く終わりたい根性しかない。
 十悪、五逆、謗法、闡提は確かにそうだ、否定できない私のことに違いない。
 では、こんな私は本当に救われるのか、現在、この世で地獄行きが、極楽行きになれるのか、そんな力がどうしてこの六字にあるというのか。信じられない、分からない。
 阿弥陀仏の本願に対する疑いが次々と出てくる。合点と疑いの二つの心で、Tさんどころか自分自身が問題なのだ。

・何とか分かりたい、ハッキリしたいと親鸞聖人のアニメ1部を見た。
 特に終わり部分の親鸞聖人が法然上人に会われ、聴聞の末、抑え切れない胸の内を告白なされるところを毎日3回も4回も、1週間程見続けた。

聖人「今はもう、聞く心もございません。ただ煩悩と疑い一杯で、阿弥陀仏の御声がきけません」
上人「うぬぼれるな、そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か」
聖人「親鸞の心はただ暗い、それだけでございます。
暗さも分からぬ、真っ暗がりでございます。お助け下さい上人さま」
上人「親鸞よ、そなたには、まことを聞く耳はないのだ。それがそなたのまことの姿なのじゃ。一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。捨てようとする心も捨てよ」

 この後、聖人が獲信さなれている。

 自力の心、救われたい、助かりたい、安心したい、ハッキリしたいの心がどうして捨てられようか。

 この心あるから皆、聴聞、財施、顕正、その他に頑張っている。捨てよ捨てよと言われるが、ではどう捨てていいのか。
 トリモチみたいに決して離れない。この心ひとつで数十年求めて来たのに。叩いても、押してもびくともしない鉄扉にぶち当ってしまった。
 見るたび涙が出てしまい、1週間もすると辛くて見るのをやめてしまった。

・また同時に、親鸞会の今の求道で本当に救われるのか、と疑問が頭を持ち上げてきた。顕正の目的がずれている、会計報告しない以上、財施も何に使われているか怪しい。
 三願転入で救われる、なら19願の賢善精進の実行も外見ばかりで、本心叩けば出来ていないではないか。心口身共やっていますと自信もって言える人はあるのか。

 私は出来なかった。

 皆さんが尊敬されている講師部も19願の入り口にも入っていないと、高森先生がそう言われたそうだが間違いないだろう。誰か文句言えるのだろうか。
(最近信心決定していますという講師が何人もあると聞くけれど、この極難信の信前信後、どうなったのか詳しく説けるのだろうか)

・19願の諸善の次は念仏ですが、高森先生は「信仰が進むと念仏称えずにおれなくなる」と言われたことがありました。聞かれた方もあると思います。
 私の支部長はよく念仏称える講師だと言われている支部長はあるでしょうか。私が所属していた県の講師にそんな方は一人もいませんでした。
 高森布教局長も、念仏称えているのも数十年聞いたことも、見たこともありません。家で一人静かに称えておられるのでしょうか。私の認識不足なら失礼致しました。

 20願通らなければ18願の願海に転入は出来ない。しかし念仏の人は見かけない。

・これでは、この世で救うの本願あれど、三願転入の道、はるか遠い。
 高森先生が言われた「人生の目的でなく、本当は多生の目的です」
 とでも思わねば続かない。私の心にぴったりだ。しかし平生業成が親鸞聖人一生のみ教えです。
 弥陀の救いは一念往生と願成就文に願意を明らかになされ、「人身受け難し、仏法聞き難し、今生に度すべし」の釈尊の御教誡は無駄ごとになる。
 私達はこのまま聞いてゆば、宿善が厚くなり、ある日地震の如く後生の一大事に驚くと言われたが、それまで命があるか。
 なんとかなるの信心がぐらぐらと揺らぎ始めた。皆さんの信心はどうですか、大丈夫でしょうか。

○8月のお盆になり久々に実家へ帰った。
 80歳過ぎの母が、もう父の墓参りは今年が最後だろうから連れて行ってくれと気弱なことを言った。早いもので亡くなって10年が過ぎ、車で村の墓場へ行き父の墓前で阿弥陀経をあげて母と父を偲んだ。

 家に帰ると母が「こうしてじっくりと話が出来る機会はめったにないから言っておきたいことがあるので聞いてくれ」といつもになく静かに話し始めた。

 自分の生まれた時からの話が始まり、これまで断片的に話していたことを、正確に時間的順序で出来事、心情を2時間余り語ってくれた。

 家が貧乏子沢山で奉公に行ったこと、満州開拓団に夢を托し、結婚し男の子供2人もいたが、夫は急性肺炎で満州で急死、子供はソ連参戦のどさくさの惨事で死なせ、この世の地獄を味わった。

 戦地で助けてくれた今の父と命かながら日本へ帰国して私達、兄弟が生まれ苦労したけどなんとか今日に至った。亡くした子供を思い、その分私達に注いでくれた愛情の数々を思い出すと私はこみ上げる涙を堪え切れなかった。

 特に私は小さいとき病弱で、兄弟の中でも親に心配ばかりかけてきた。にもかかわらず、父が亡くなり、遺産分けが思ったより早くなったとき悲しみはしばらくで、これで助かると心で喜んだではないか。

 今も私の身の幸一つを思っていてくれる母に日頃何を思っているのか。
 親を利用する心しかないくせに、自分の子供の恩知らずの態度に、己忘れて不満一の私ではないか。
 ああ私程、恐ろしい者はない、浅ましい子供は無い、親は無い。恩知らずの鬼は私だ。、

 悪かったー、俺程悪い者は無い、堪忍してくれー、と大声を挙げて膝に泣き崩れた。恥ずかしいも何も無かった。泣くしかなかった。

 母は「分かった、分かった」と背中を撫でてくれた。
 私が泣き止むと母は話を続けた。

「お前が高森さんと縁があって仏法聞くようになり、講師にもなって苦労しているのを見て、早く信心決定してくれ、まだかなまだかなとずうーと思ってきた。生活も大変やし子供もいるのにどうしてやってゆくのかとそれも本当に心配だった。講師やめて働いて生活心配ないようになったと聞いて安心したよ。だけど後生のことは大変だ、このまま高森さんの話聞いていって信心決定できると思っているのか」と聞いてきた。

 本当にドキリとした。見抜かれていると思った。どうしてそう思うのか聞くと驚くことを言い出した。

・「満州から帰ってしばらくして、、高森さんが村の寺へ説教に来られ、聞く気なかったけど余り近所の人に勧められ、断ってばかりいては悪いと思って参りにいった。

 その時「念仏称えておっても助からん、信心頂かねばあかん」と言われた。この人変わったこと言う人やなと思った。まだ学生服の金ボタンの頃で、誘った人に訳を聞いても要領が悪い。それで夜の説教が終わっていたけど数人で寺へ戻って尋ねたら、奥から出て来られて囲炉裏かこんで夜中3時頃まで聞いた。

 それから聞き出した。婆ちゃん(祖母)も聞けるとき聞かなあかんと言ったので聞き回った。そりゃ厳しい話やった。しかし満州で地獄見て来たから、罪悪、無常が本当で怖いけど聞いた。数年後、聞いて安心出来た。

 お前みたいな者がと言われるだろうから、ずーと言わずにきたけど、いつ、何時死のうとか私の後生は心配してくれるな。

 それより、落慶式に行ってあの広い所(2000畳)と前のテレビの大きいのには驚いたが、話を聞いててこれではなーと思った。

 歳とられて声も迫力も無くなったのは仕方ないが、昔の話はもっと腹に応えた。今は次から次からテレビに言葉が出てきて、若い人(アシスタント)に説明させて、黒板のあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、どうしてじっくりと座って、話されんのやろ。声小さくてもマイクあるから良く聞こえる。

 落ち着いて、じっくりと話して欲しいな。次々と色んな言葉出されても多くて覚えてもおれん。昔と違う。

 お前、あんな中で信心決定しようと思ったら余程、真剣に聞かないと聞けんと思うが、どう思って聞いている。何十年も何、聞いて来た。一生なんかすぐ終わるぞ。
お前、高森先生だけに聞いてるがそれでいいのか。一度、離れて静かに自分の心を見つめた方がいいのでないか」

 がーんと来た。私の数十年の聴聞姿勢を破壊されてしまった。

 この世ばかりか、後生まで心配してくれる親であったのか。
 それなのに、余り仏法のこと分かっていないと思い、教えてやらねばと自惚れていた。

 父の本棚には昭12年に出版された為蔵館の「本願成就文説教」があった。当時、有名だったのか高森先生が説法で話された内容も多く書かれている。父も私より深く聞いていたのか。

 私は如何に愚かな息子か、それと同時に何と有難い両親の元に生まれたのかと思いながら、父の伝言のようなその本を持ち帰った。


○私はこれまでほとんど高森先生、親鸞会発行の出版物しか読んだことがなかった。皆さんもそんな人、多いと思います。

 何しろ高森先生だけが、唯一の善知識だから、他は読む必要は無い、間違っている。読むこと自体高森先生をおろそかにしている謗法罪だという意識しかありませんでした。

 禁止を破った清森さんはその為、何日も講師部会合の時、前に出され、全講師部から指摘の嵐を受けた。
「君は学院再研修だな」と冷たく高森布教局長から断を下され支部長解任の処罰を受けてしまった。誰も恐ろしくて他の本は読めなかった、話を聞けなかった。今もそうですから、ここをこっそり見ている講師部員は隠れてでしょう。


・父の残してくれた、「本願成就文説教」を読んで私の頭は「目から鱗」くらいではありませんでした。

 高森先生だけが唯お一人の善知識の思いが崩れ出した。
 高森先生以外にも、阿弥陀仏の本願を分かり易く伝えている方があった。
 私にはソ連崩壊よりすごい、信じられないことが起こった。

 見るなといわれていた、インターネットにも接続し「親鸞会」を検索した。
 有るは有るは、紹介や批判の項目が10もあって読み始めた。
 中に、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」があり、開いて見て驚いた。

「高森顕徹氏の著書のルーツ」を読んで、大沼法竜氏と華光会創始者の伊藤康善氏の著者を盗作していたことが分かった。

 高森先生は「糸一筋でも他人の物を盗ってはいけない。私は子供の頃、母に拾った柿を見せて半殺しにされる程酷い目にあった」と講師部の前で盗むことの悪を教えられた。

 だから問題なのです。

 ここまで読まれた方で、高森先生を信じておられる方も多いと思います。私もその心情はよく分かるのです。しかし事実を誤魔化さず見つめてゆく勇気が今必要です。検索すれば分かります。

 私は大沼氏の福岡県の寺に電話で本を早速注文しました。30巻中今は16巻しか無いと言われ全部下さいと言いました。

 華光会へも電話で注文し「仏敵」「安心調べ」「われらの求道時代」「念仏のお叫び」等を求めました。

 読めば読むほど、大変なことが分かって来たのです。

 長くなりますので、次回に致します。

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>>>   私の白道

私の白道・2(質疑応答80) 2008-03-31 21:52:59 

元講師部員の方から、掲載の希望がありましたので、以下に紹介させて頂きます。


       *        *        *


○  3月10日の質疑応答74の私の発言を多くの方が読まれたことを知り有難く思います。同時にこの元親鸞会講師部とは誰か、何の目的でこんな発言をするのか、真意が分からないと思われた方も多いと思います。

 氏名を明かさない理由は後日お知らせ致しますので、今日は真意をお伝え致します。

 私も清森発言の有ることを知り関心を持って見て来ました。
 除名されても何とか親鸞会に正しい親鸞聖人のみ教えを伝える団体になってもらいたいの気持は尊いと感じました。

・ 2月25日 質疑応答62に親鸞会の未来を非常に憂慮し何とか立ち直って頂きたい、として清森さんは以下の案を提示しました。

(1)学生に対する新勧活動を中止する。
(2)目標制度の廃止
(3)本来の支部長制度に戻す。
(4)富山に集めるのではなく、地方に分散させる。
 
 私はこれを見て、ああこれでは駄目だ、発言しなければならないと思いました。これは枝葉だ、親鸞会の真の問題の本質ではないと感じたからです。
 この思いを清森さんに伝えたところ、了解されアップされることになりました。本当に不思議なご縁であり、これ皆 阿弥陀仏のお手回しと思わずにおれません。


○  私は「顕正」を読み、高森先生の説法を聴聞して高森先生だけが現在唯お一人の善知識(体験・教学の徹底した)であると確信して数十年求めてきました。
 講師部こそが信心決定の最短の道と思い決心して飛び込みました。   
 本願寺は真実説いていないくせに、高森先生を批判している、許せないと20数年前、本願寺座り込み行動にも会員を誘い参加しました。
 本願寺の沈黙でやはり高森先生はすごい、善知識だと改めて尊敬したものです。
  
○ 「アニメ」で本願寺は変わる、大津波に飲まれると高森先生は言われたので、必死で会員さんと1軒1軒アニメ頒布に10年近く回りました。
 重いアニメ鞄を持ち続けていた為、腕を痛め整骨院にも通いました。  
 100万頒布しても、まだまだ琵琶湖に小便したようなものだと豪語され、そうか頑張らねばと思ったものですが、今はアニメ頒布に全く力が入っていません。
 「アニメ以上の布教はない」と叫ばれたあの頃の熱意はどこへ行ったのでしょうか。
 今度は本願寺が親鸞聖人のアニメを出すらしく諸行無常で何が起きるか分からないものです。  
 しかも昨年からアニメの内容の問題点を指摘する人が現れ、今大変なことになっています。思わず「辻斬り強盗にあったようなもの」と反論されているが実感がこもっている。 

○ 「なぜ生きる」こそ全人類の光となる御著書と言われベストセラーにする為だからと指示があり、幹部の方と指定の書店でまとめて買っては本会へ提出してきました。
 ウソのベストセラー作りに協力して、こんなことでいいのか、素晴らしい本なら口コミでも広がるはず。会員さんも出版された時だけで、今は余り読まれていない。私自身、12冊も持っている。
 今度の「歎異鈔をひらく」もそうならなければいいがと思います。
 やはり財施もまた募られ大変だと耳に入っています。

○  正本堂建立について高森布教局長から「正本堂で1万人にご説法されるのが、高森先生の長年の夢だ。だから今の会員数では足りない。もっと顕正して御苦労、御心にお応えしよう」と幹部を前に発表があった。
 おかしいと思った。
 いつの間にやら、顕正の目的がずれてきている。気付いた方もあるはずです。  
 親鸞会は後生の一大事の解決を目的としている筈が、人集めが目的になっていないだろうか。
 今年は親鸞会50周年で顕正目標が高いと聞いています。
 M支部長が夜の1時頃会員7名で退会希望者の家に来て3時頃まで居て、退会するならお仏壇の正御本尊も返却せよと迫った話もここの狂いから生じていると思います。
 退会したい理由を良く聞き、仏法の聞き間違いなら順々と話するのが支部長ではないか。日頃の自分の法施、育成不足が原因となぜ反省せずに夜中に乗り込むのか。付いて行った会員は自分も退会を言い出せばこんな目に合うのかと恐怖を感じる、是も狙いだったのか、誰だこんな非常識な支部長は。名前を知ってやはりなと思いました。

 高森先生の夢を実現させる為に活動しているのだろうか、と疑問が膨れあがる。明らかにおかしい。   
 支部長の口からは参詣、財施も何かと言えば「高森先生の御心、ご苦労、ご恩」ではないだろうか。
 なぜ「阿弥陀仏の願い、ご苦労、ご恩」が切実と語られないのか。   
 親鸞聖人は正信偈に「帰命無量寿如来 南無不可思議光」であり、歎異鈔は「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」で始まるではないか。
 想いの強い方が先に出るからではないだろうか。


○  顕正目標達成にに苦心し、何より本会から来る財施目標の達成に眠れぬ程悩みました。会員さんの現状を知ると本当に辛かったです。
「財施を勧め切れないのは、仏法が分かってないからだ」と各地の予約達成表を前にいて布教局長に叱られ、そうなんだと自分に言い聞かせ集めるしかありませんでした。
 ところがそんな苦労したのに収支報告が無い。
「仏法以外に使われてはいません」と済ませてしまう感覚に疑問が出て仕方ありませんでした。しかし立場上そんなことは言えません。
「尊いご縁を結ばれましたね」と不審が出ぬように気をつかいました。
 これが最後の財施だったはずの正本堂の後も次々募られてゆく。
 財施が悪いと言っているのではありません。
 その財施や金額が本当に必要か、財施理由が正しく理解され、される本人の自由意志であり、収支報告が正しく報告されるべきです。 
 そんな常識的なことが出来ぬぬ理由こそ親鸞会の問題ではないでしょうか。
 不審が起きて当然です。

○  高森先生は阿弥陀仏に救い摂られるには、18願の世界に入るには三願転入、19願の諸善万行、20願の念仏の道を通るのですと何十回と説いておられます。
 しかし、19願 諸善万行、善の勧めの通り実行されているでしょうか。
 高森先生が数年前の講師部会合で、「講師部はまだ19願の入り口にも入っていない」と注意されたと正直な講師部員より聞きました。 
 また「信心決定していなくても、聞く人の為ならウソで信心決定していると言っていい」と言われたが私はとても言えない、とこれまた正直に教えてもらいました。
 私が元講師部であり気を許して言われたのでしょうが、その講師は「私は何十年聞いているけどまだまだです」と、本心隠さず自身の信心を告白され尊い、真面目な方だと頭が下がりました。
 最近、自称信心決定の支部長が多いのはその為ではないでしょうか。  
 本当ならこんな尊いことはありません。心から喜ばずにおれません。  
 ここを読んでおられる会員さんの支部長はどうでしょうか。  
 私が退部する前の講師部員で信心決定している方はありませんでした。 
 清森さんも同じ意見です。  
 昨年、上田祥広さんが信心決定していると言ったので高森布教局長から激しく異安心だと責められ、結局除名になったことを知りました。
 今、信心決定していると言っている支部長は除名にならないのでしょうか。布教局長さえ未だ信心決定したと言われないことを、そんな先に言って大丈夫かと心配になります。不思議です。

○  教えは確かに三願転入ですが、実行となるとどうか。
 19願は救われたいと心から願い、諸善万行を実践する、廃悪修善をとことんやれば臨終に阿弥陀仏が菩薩を引き連れて迎えに行きましょう、化土へ往生させてあげましょうという願いです。
 真面目な講師部員も多いですが、ここに書けないことも、数十年の間には数多く見てきました。
 しかし講師部個人のことを書くつもりはありません。

 それより自分はどうか、19願の通り実行出来ているのか。  
 全くお粗末千万、阿弥陀仏からご覧になれば虚仮不実、雑毒の鼻持ちならぬ偽善者ではないか。 
 善どころか、三世の諸仏に見捨てられて当然の、十悪、五逆、謗法、闡提以外何も無い、無仏、無法ではないか。
 説法すれば評価が気になり、参詣者の増減に気持ちが動き、御法礼が気になり、今月やり繰り出来るか計算しだす。
 顕正すればその話し方を内心誇り、参詣目標を達成すれば出来てない講師を心で見下し、財施に頑張れば評価を期待し、会員さんの前では如何にも本会の指示に従い不足など無いように振る舞う。聴聞しない会員は自分の法施不足なのに仏縁の薄い人と嘆き、活動する会員は大事にし心を掛け、動かぬ会員を疎ましく思う。
 人が見ていないとお勤めしていても早く済まそうと早口になり、お仏花、お供物代が惜しい。後から食べようと自分の好きな物しかお供えしていない。
 お礼状が来るとその人の名前はしっかり覚え、そうでない人はなかなか覚えられない。それでいて自分がお礼状書くのが遅い。
 自分のミスを同僚に見られないか、上司に報告されないか、今度の講師部会合で前に出されて指摘されないだろうか。
 あー何をしているのだ俺は、人の評価ばかり気にして、取り繕って、感謝も無ければ、懴悔も無い。
「なぜ生きる」「人生の目的」は口先だけでないか。仏法を「どう生きる」の手段にしているではないか。一番心配しているのは後生でなく、「どう生きる」だけでないか。
 何が講師部だ、三界の大導師だ、人は騙せても阿弥陀仏は見聞知だ、騙せると思っているのか。講師部退部の心へと傾いていった。
   
○  高森先生は雑行雑修自力の心が廃らねば、18願の世界へは出れません。
 雑行雑修自力の心を知るには30-40年かかるだろうといわれた。
 私は大ショックを受けた。
 だから何十年、何千回聴聞を続けていても、後生の解決が全くつかないのか。宿善が薄いからだと自他共に言ってきたのだから、そうに違いない。先生は「私は真実を説き切っている。聞ききらないのは皆さんの責任です」と何度も言われた。自分が問題なのだ、高森先生、親鸞会の指示に間違いがあるはずがない。あーなんという恐ろしいことを思うのか、法謗罪だと退部してからも反省の日々が続きました。。

 この後、わたしの求道を根本から考えさせられる出来事が起きて来たのです。
 長くなりますので次回にお話します。

 

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>>>   私の白道

私の白道・1(質疑応答74) 2008-03-31 21:51:30 


元親鸞会講師部の方から、頂いたメールを紹介させて頂きます。

高森先生への批判があり、心が痛みますが、的を射た鋭い指摘です。

親鸞会が更生するには、過去の過ちを懺悔して、立ち直って頂くしかないと思います。

全人類が、本当の幸福になるためには、親鸞聖人のみ教えを正しくお伝えするしかありません。

高森先生、そして親鸞会幹部の方の耳に届くことを念じて、アップさせて頂きます。


          *           *           *

合掌

 清森問答、上田さんコーナー、T社と田中氏との法論を毎日、見ています。

 大沼さんの受け売りで、「若不生者、不取正覚」で信楽の身になれると50年、教えてこられたので、今更、大沼さんが、根拠です、とは言えない。本願、間違えていたでは、済まない。切腹ものだから、辻斬り強盗とありましたが、これは高森先生の本音に違いないと思います。
 みっともない位、話をはぐらかそうと、必死です。清森さんからも根拠はありません、と追撃を食らい、今頃、除名にしなければ良かった、と後悔されていると思います。

 高森先生は都合が悪くなると

1.嘘をつく

○支部長制度は講師部の要請です。
○局長の不倫疑惑は、でっち上げだ。写真もビデオも捏造だ。
○財施をこれだけせよ、と言ったことがない。
 建立財施も他も「本会から本部長に目標財施が来る」
○華光会時代の事、高森先生の過去をカットする。
○会報、光に向かって、お歌、盗作なのに自作のように思わせる。


2.黙って説明をしない、無視する

○蓮如上人500回忌の延長理由を言わない
○財施の収支報告をしない

3.コロコロ変更する

○光戦以上の法施はない。
 現在はアニメのことを何も言われない。
○光戦によって、本願寺は変わる。
 現在は、「なぜ生きる」で世界の小杉になる。しかし会員は激減。
○ビデオ講師部制度は変わり通し。講師部が行けない会員さんに法施をする。法領も固定。
 現在は、皆さんが希望されたから、やめるのも自由です。
○支部長制度になれば、布教は自由にする。
 現在は10分間説法とビデオ御法話だけ
○布教局長は上司ではなく、布教の相談役のようなもの。
 現在は独裁者。権力の集中化、10講制度で縛り上げ
○支部長は布教に専念して、パソコンなどに時間を使うな。活動報告は自由。
 現在は、参詣、財施、会費、通達、活動報告のために長時間を費やす。


 しかし、これも親鸞会を発展させるため、守るため、と言われれば、熱心な会員さんは、皆、目をつぶり、自分に納得させて耐えて来たのです。

 でも今回の問題は全く質が違います。

「親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏の本願だけを伝える。親鸞会が、高森先生が、阿弥陀仏の本願を間違えて伝えていた。その元は、大沼法龍氏のパクリが原因であった」
 = 高森先生は正しい信心、教学があるのだろうか?

 これは親鸞会を根底から、ひっくり返す、これ以上ない大問題です。
 まさに50周年目に起こされた阿弥陀仏のドラマと私は思っています。
 このまま、じっと阿弥陀仏が見ておられる筈がない。今に何かが起きると、ずっと思っていました。

 中でも教学を信じている人ほど、ショックです。講師部、親友部、特専部、学友部、幹部の動揺は大変なことだろうと思います。高森先生の血圧は上がりっぱなしでしょう。
 自説に対する疑い、信用、不安が広まらないか、皆、どう思っているか、知りたい一杯でしょう。

 T社説を徹底講義して、田中説の間違いを何とか徹底させたい、何とかしなくては、の思いで、頭が一杯だと思います。

 講師部も
「阿弥陀仏の本願は、すべての人を絶対の幸福に助ける、というお約束です」
「先生、根拠は何処ですか」
「ハイ、本願文に若不生者、不取正覚とあります」
「親鸞聖人はどこに、そのように教えておられるのでしょうか」
「・・・それは・・・」自信を持って説けなくなるから、大問題です。

 ただ、親鸞聖人に根拠がなかろうと、高森先生に間違いはない、私はそれでいい、という人が大勢だと思います。

 しかし、千丈の堤も蟻の一穴より崩れると言われますので、おかしいと思う講師部、会員さんが現れたら、予想のつかぬ事態になるとも思います。

 清森さんの発言も大きな力になりますから、よくよく注意して伝えてください。

高森先生は

○アニメの批判者の会員を除名
○大島一声への批判文、パンフ配布
○瓜生氏への局長、総長の批判声明の発表
○法話ビデオダビング者へは除名処分

 異常な程、自分を批判する者に対して執念を持たれる性格の方です。

 清森問答も当然、チェックして、教学部にも攻撃させる用意位はさせているでしょう。

○この説明をせよ、親鸞会批判は許さぬ、法的に対処する。
○責任をどう取る、謝罪せよ、布教をやめよ・・・

 こんなことは平気でやる集まりが親鸞会だから、言質を取られぬ様に、注意に注意して、発表した方が良いと思います。そうしないと、その対処に精神的、時間的に大変な労力を費やすことになりかねます。


 親鸞会会員は、信心決定しか、頭にありません。念仏も往生成仏も、あとについてくることだから、兎に角、獲信、獲信、宿善、宿善、活動、活動、人集め、金集め、会合、連絡・・・の心境です。
 私もこれを、ずっと続けてきました。

 なぜ大沼さんが若不生者を信楽の根拠にしたのだろうか、と改めて読んでみますと、
『若不生者の誓いゆえ・・・』
『生まれるべからざるものを生まれ・・・』
『信受本願、前念命終・・・』
 根拠も高森先生と同じ。ここをそのまま、鵜呑みにした事がハッキリします。

 大沼さんの信心はどうであるか、ということは私には言えませんが、救われた喜びは、名号六字丸貰い、仏凡一体としか、言い様がありませんが、この弥陀の大願力、お慈悲は念力だ・・・、若不生者の念力だ・・・と、これまで誰も言わなかった、あれほど御聖教をやかましく言う大沼さんが、親鸞聖人の根拠にもないことを、はっと思いついて、言ったのでは、と想像しています。

 それを高森先生が盗作されたために、その説明がつかず、まさか大沼説などと言える筈もなく、大問題になったのでは、と思われます。

どんな人でも(すべての人を)
絶対の幸福に
必ず助ける

 これが若不生者の誓いです。(親鸞会)

この世を絶対の幸福になって暮らしたい、人間に生まれて良かった、と生命の歓喜で生きたい。これをよくよく考えてみると「よく生きたい」「どう生きる・生き甲斐」と、どれほど違うのか、と思えて来ました。

 親鸞会会員は、信心決定、宿善しか頭にありませんが、名号六字の功徳、念仏、往生する、成仏することについて、どれほど関心があるでしょうか。知っているでしょうか。
 仏教の目的は、この世を安心して、生きることでなく、六道の迷いを離れて成仏することですが、どれほど意識して活動しているでしょうか。
 自分はどのように話をしてきただろうか、と最近よく反省せずにおれません。

 恥ずかしいことに参詣、財施、顕正、教学受験、目標達成、何より今日の生活が出来るかどうか、内心、何より関心があったのは、こっちの方でなかったか。
 
 往生成仏など、1%も頭にあっただろうか。

 さぞかし立派な心で求道、活動しておられるだろう、私達の支部長は、と会員に思われる様に言動しなければならない。
 講師部同志でも、信心の沙汰もなく、ミスをしないよう、チクラれないよう、「心口各異、言念無実」虚仮だったなあ、恥ずかしい求道だったなあ、皆、如来様は見ておられたのだ、早く自分の値打ちを知れよ、と見ておられた。ああ、このままだったとは、申し訳がない、勿体無い、南無阿弥陀仏。


●T社の質問に、信楽に

 どうして生まれる - 聞其名号
 何の力で生まれる - 名号
 いつ生まれる   - 乃至一念、即得往生

 若不生者の本願成就文の根拠は - 名号がそれである


●田中氏の答えは正しいと思います。

『本願名号正定業、至心信楽願為因』
『無碍光如来の名号とかの光明智相とは、無明長夜の闇を破し衆生の志願を満てたまう』
『光明名号顕因縁、開入本願大智海』

 若不生者の念力で信楽になると、なぜ大沼さんは言ったのか。大沼さんは本願寺の十劫安心、無帰命安心、「念仏称えていれば死んだら極楽、死んだら仏」仏法の有り難み、のみを説いて、機を説かぬ、と多くの著書に書いている、批判している。

 高森先生の本願寺批判も同じだった。

その反動が、この世で絶対の幸福になる(信楽)
信前の念仏など何にもならぬ、助からぬ
ここにこそ、阿弥陀仏のお力、念力がかかっているのだ、

となったのでは、と考えています。だから左から、右への反動だと思います。

--------------------------------------------------------

 救われて分かることは、阿弥陀仏の仏心を知らされることも難の難ですが、しかし悪業煩悩しかない、この私が往生成仏するということは、どえらい事だなあと、日に日に思えてくるのです。

 観経のイダイケ夫人の救いは過去に修行していた人だ、凡夫が往生成仏の身に、この世でなれる筈がないと、天台達がいったのは、彼等にはそれほど成仏するということは、どんな大変なことか、尊いことかが分かるからです。
 救われれば、易往なのですが、これを信じられることは、これまた難だから、阿弥陀仏は命がけで、どうか信じてくれ、必ず仏にしてみせると誓われたのだと思わざるを得ないのです。決して決して、当たり前と思えることではないのです。
 悪業が知らされるほど、この悪業を断ち切って仏にさせるために、どれほどの、いかほどのご苦労をなされたのか、ご修行下さったのか、申し訳ないことだと、ただ念仏申すばかりなのです。

--------------------------------------------------------

・衆生性得の機
・如来回向の機
・本願疑惑の機

この三つ、ハッキリと説かねば、聞かねば、知らねば、弥陀に救われません。
この如来回向の機が分からねば、本当の本願疑惑の機もわかりません。
善知識でなければ、分からない、説けないところです。

清森問答に、最近は念仏の事について、また発言者の意見を通して、親鸞会の問題点を明らかにしてあるので、考えてやっているな、と思って見ています。

しかし、この三つの心を正しく説かねば、導くことは出来ません。
救われるとは、この三つ共、ハッキリと知らされる、ということでした。

★聞其名号の
『聞というは衆生、仏願の
 生起【衆生性得の機=機の深信】
 本末【如来回向の機=法の深信】を聞きて
 疑心【本願疑惑の機】あることなし』

いろんなことを教えたいでしょうが、救われるために絶対、知らねばならぬ、この三つの心、明らかに皆さんに知って頂きたい、と心から念じています。

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